第一楽章「これからの社会資本整備をどこに導こうとしているのか」
(1)話題提供・問題提起


(村橋(コーディネーター))

 フォーラムの第一楽章の進め方を説明する。まず私からの話題提供を行い、次に5名の中堅・若手の研究者から話題提供をしていただく。そして、これらを踏まえて本題のパネルディスカッションを進めたい。最後に会場から質問や意見をいただきたいと考えている。

これからの社会資本整備、5つの動機付け:村橋正武

 まず私から話題提供をしたい。本題の「これからの社会資本整備をどこに導こうとしているのか」に対し、さきほど平峯さんから直球を投げていただいたが、私はそれに反論する部分について話したい。まずは「国土計画の変遷」と「国における社会資本整備の取り組み方」です。平峯さんからは「「社会資本整備は社会の現象に反応して取り組むものだが、今は社会そのものが混沌としている。先行きの道筋が見えない」との指摘があった。

 わが国では、う国土計画は過去5回作成された。ところが世の中が大きく様変わりしたことから、現在策定中の国土計画は国土形成計画と名前を変え、中身も大きく変えようとしている。メガトレンドとして、人口減少、少子高齢化、財政制約、アジア諸国等の台頭と国際競争の激化、環境制約の顕在化などが前面に出てきたため、社会資本整備・まちづくり・地域づくりのあり方について、大きくパラダイムを変える必要が出てきたからだ。

 新全総(昭和44年)における計画策定の意義には

「新全国総合開発計画は・・・今後長期にわたる国民の活動の基礎をなす国土の総合的な開発の基本的方向を示すものであって、巨大化する社会資本を先行的、先導的、効果的に投下するための基礎計画であり、あわせて、民間の投資活動に対して、指導的、誘導的役割を果たすものである」

と書いてあり、日本の国土計画の礎になるものとして作られてきた。

 最近になって政策方針が変わり、社会資本整備については別々の5カ年計画などを一本化し、社会資本整備重点計画とした。

 しかし、平成20年度からの第二期計画をつくることになっていたにもかかわらず、いまだにできていない。つまり長期計画は存在していない。それにかわるものとして現政権では、国土交通省成長戦略会議で議論をしているが、答えは出ていない。その結果、社会資本整備の方向性が不明であり、私は非常に由々しきことだと思っている。社会経済の変動を短期的に見通すことは難しいが、長期的であればこそ基本的な考え方は持っておくべきだが、それすらわが国にはない状況である。

 こうした中で私は、社会資本整備の動機付けとして、5つの今日的視点と目指すべき方向性を指摘したい。

 私からの話題提供は以上だが、これからは5名の中堅・若手の研究者の方々から、自身の抱負や所見を話していただきたい。

 

若手研究者からの問題提起
「人口減少時代の地域構造変化 〜社会資本整備とくらしの相克〜」 提案者:角野幸博

 人口減少化時代では、社会資本整備をどのように理解しなければならないのか、生活者と土地利用の関係における問題提起をしたい。

 人口減少が影響を及ぼす地域として、例えば大都市中心部ではCBD(中心業務地区)や密集市街地があり、郊外部ではどちらかと言えば大都市圏に近い内郊外(インナーサバーブ)、その外延部に広がる外郊外、もっと離れた超郊外がある。これらの地域にどんな影響を及ぼし、土地利用の変化をもたらしていくのか。山林・農地、地方都市・旧集落、中山間地域なども含めて、いくつかの中心市街地や居住地のパターンがあるわけだが、それらに人口減少がいろんな影響を与える。トータルでみるとどのような縮退のシナリオを描くのか、縮退していく中で社会資本をどのように再編していくのかが大きなテーマになってくるだろう。

 DID(人口集中地区)の変化を調べてみた。関西地区の戦前の住宅地状況を地図上で表すと、地下鉄は別として1930年代に鉄道ネットワークの99%が完成していた。市街地が一気に広がった1960年代以降の高度成長期は、戦前に用意してもらった鉄道ネットワークに張りついていくか、その間を埋めていったに過ぎない。

 今年3月に「都心・まちなか・郊外の共生」(晃洋書房)という本を発刊するが、その中に市街化の「発展と縮退」をまとめた図を載せている。鉄道ができて市街地が広がる。周辺部では区画整理、スプロールなどによって居住地が広がる。あるいは旧町に新駅がつくられ、そこに住宅地開発が進んでいった。その中で農村集落はポツリポツリとあった。高度成長期では、計画的なニュータウンが開発され、あるいはバス路線に引っ張られるように開発が進んでいった。一方で市街地は空洞化するようになった。調整区域内ではあまり喜ばしくない開発も行われた。それらが内郊外、外郊外、超郊外として構造化されてしまう。人口減少の中でそれぞれが改変されていくのだが、改変の方向については3月発刊の本を読んでほしい。

 その時に今までつくってきた鉄道網や区画街路、上下水道など社会資本をどのように選択・集中していったらよいのかが大きな課題となるだろう。一方で、まちやくらしはどんどん変わっていく。それは空間の変化と人の変化の両方があって、その相互作用のもとで地域社会は継承、変容されていくだろう。

 人口減少の中で都市再生が大きな課題となってくる。郊外では空洞化への対策、中心市街地では活性化の模索、密集市街地ではっその解消策が求められるが、いずれも課題は大きい。そして都市・農村の一体的計画の必要性が高まり、既存ストックの老朽化と再利用に社会資本の何らかの部分も関係してくる。一方で不在地主がどんどん発生してくる。地域社会の管理運営の担い手として、様々な「新しい公」というものが求められている。これらのことが一般的な課題としてあるわけだ。 社会資本はある時代、ある状況を想定して設定、建設されていくわけだが、じつはいったんつくられた状況が次の開発を方向付ける。それは冒頭で話したように、1930年代に鉄道ネットワークの99%が建設され、それから70年という経過の中で、そこにへばりつくように市街地が形成されてきたことが裏付けている。一旦整備された社会資本は、「先に存在する環境」化していく。一般的な都市は慣性的な傾向にある。過去に引きずられたものが、そのまま残っていくという力と、それを消していこうという力の相克の中で変わっていく。例えば旧港湾や旧貨物ヤードが再開発されるというような、何らかの跡地化したものが次のまちづくりのネタになるわけだが、問題は「跡地」は周辺を含めて跡地化する。つまり、あるものが存在していたから周辺もその影響を受けていたわけであり、それが消えると、周辺は取り残される恐れがある。そのことが私は気になっている。 例えば大阪府庁が南港に移転したとして、府庁跡地の問題でなく、府庁と周辺との関係が消えてしまう。跡地は周辺を含めて跡地化する。生活および経済活動の変化は、跡地再開発の変化を待ちきれない。その結果、実際の都市活動と都市空間との間のズレは常にあるということだ。私たちはそのズレがあることを前提とした様々な経済活動や生活をしているのであり、ズレと実際とをうまく取り結ぶことが、エリアマネジメントの戦略として重要だと思う。

 

若手研究者からの問題提起
「これからの技術者に求められるもの」 提案者:建山和由

 社会資本整備について、私が最近考えていること、取り組んでいることを話したいと思う。日本では明治時代に鉄道がつくられて以降、すごい勢いで社会資本整備が続けてられてきた。これまでの社会資本整備の推移をグラフ化してみると、鉄道整備は急ペースだったが、他の社会資本は同じようなペースで効率的に整備されてきたことが分る。世界からも驚かれるほどの整備ができたのは、設計を徹底的に体系化し、マニュアルを整備してきたからだと思う。これによって一定レベルのインフラが、より効率的につくられるようになった。それが日本の社会資本整備の手法の特徴であり、大きな貢献をしてきた。一方で、マニュアルを徹底してきたために、現場で技術者が判断する機会をなくしてしまった。マニュアルに照らし合わせれば一定のレベルのものができるようになったため、技術力は次第に低下し、言い過ぎかもしれないが技術レベルが鈍化してしまった。

 それが最近変わってきた。今では多くのインフラが整備水準に近づきつつあって、かなりのところまで整備された。今後はつくる時代から、いかにうまく使っていくかの時代、つまり維持管理の時代になる。インフラも50年、60年を経ると傷んでくるわけで、例えば下水道もかなり傷んでいる。大阪では秀吉時代の太閤下水が現存している半面で、劣化・破損して道路が陥没、車がはまってしまう事故が多発している。メンテナンスが必要だが、維持管理は、造るよりもはるかに難しい。どこが悪いのかを調べ、なぜその状態になったのかを分析し、どのように直すかを考え、かつ使いながら直していかなければならない。だから維持管理はマニュアルの整備が難しく、技術者には従来よりもはるかに高度な知識や判断力が求められる。建設技術者にそれができたら、1ランク上の職域になっていくだろう。メンテナンスの仕事はいかにも暗く、目立たないイメージがあるが、非常に重要な仕事であり、今後はもっとクローズアップしていくべきだと思う。

 建設を取り巻くもう1つの変化として、建設投資の減少と環境負荷対策の重視がある。これらの課題に対しては、新しい技術や手法を開発しなければならない。そのためには、マニュアルにとらわれない、技術者の高度な能力が必要となる。

 その一例を紹介したい。山を削り、土を運び、島を造る工事での取り組み事例で、情報通信機器を使って現場の情報を吸い上げ、柔軟に変えていくという仕組みをつくってみた。そうすると従来のやり方に比べ、生産性が2割向上し、ダンプを減らし、火薬使用を減らし、CO2排出量を24%削減することができた。

 これをメーカーなど他業種の人に話すと、なぜなのかと聞かれる。例えば自動車工場でCO2を減らそうとすると、すでに雑巾を絞るような努力をしてきたため、さらに減らすには高価な省エネ機械を導入しなければできない。

 建設現場では経済性と環境負荷低減の両立が、なぜできるのかと聞かれた。じつはそれには理由があって、建設の仕事は、雨になるのか晴れるのか、トンネルは掘ってみなければわからないなど不確定要因がものすごく多い。そんな状況下では、ある程度の条件が悪くとも工事ができる施工計画を立てていく。 不確定要因をある程度見込んだ施工計画で注目したいのが、実際には条件がそれほど悪くならない時もあるということだ。条件が良いにもかかわらず、悪いことを想定した施工計画どおりに進めると無駄が生じる。

 現場で今の状況を把握し、柔軟に施工方法を変え、必要以上のエネルギーや資材、労働力を減らしていくことによって、この現場では経済性と環境負荷低減を両立することができたわけだ。重要なことは、それをやる技術者の判断能力であり、従来のように施工計画に従うだけではなく、現場状況に応じて変えていくことが求められる。もちろん、基準やマニュアルが不要だというわけではない。標準として残しておくべきだが、あまりそれにこだわらず、より精緻な管理や対応をしていくことが必要だろう。 20世紀型のインフラ整備は、基準やマニュアルを整備し、効率化を図るという一律管理の時代だったのではないのか。21世紀型は基準やマニュアルは標準としながらも、現場に合わせて精緻に個別評価していく。そんな時代になっていくだろう。

 これは決して土木現場の問題だけでなく、一般社会にも通じることだと思う。例えば牛乳の消費期限表示は、それさえ見れば子供でも飲んでよいかの判断ができ、これはまさしく一律管理である。期限を1日過ぎた牛乳は飲めないかと言えば、冷蔵庫に入れておけば十分に飲める。業者は消費期限が過ぎた牛乳を捨てないといけないが、そのようなもったいないことが今後もできるのか。例えばセンサーでチェックし、加工するなどの対応をしていくことになると思う。個別評価をとり入れた、より精緻な管理目標で進めていくと、より高度な社会が開けていけるのではないか。インフラ整備が、それを先導していくような存在になってくれないかと、私は思っている。

 

若手研究者からの問題提起
「町医者―死ねるまちー」 提案者:松村暢彦

 私は、これからの技術者は空間をつくるだけでない、その他の部分として何が必要なのかについて話したい。

 「あなたは何になりたいですか?」という質問で、「水戸黄門」「フーテンの寅さん」「赤ひげ」という選択肢があるとする。水戸黄門は「TDM(交通需要マネジメント)はどうだ!」というイメージがあって、これはどうも古そうだ。寅さんはふらっと出向き、まちを良くして、再びふらっと別の所に行くイメージで、これはかなりの技術力が必要だから、ちょっと難しい。「赤ひげ」なら自分でもいけそうだと思って、私は地域に入り込み、いろんな活動をやっている。 楽しみは何かと言えば、「世のため人のため」が基本原則で、それが共有できる人たちと活動しているときは、私の楽しみは増幅していく。そうなると人々とのコミュニケーションができたり、何か「もの」ができたり、「こと」(プロジェクト)をつくれる。場合によっては「しくみ」をつくることもできる。非常に創造的な活動ができるということから、私は楽しみを感じている。地域の人たちと基本的なことが共有できればよいのだが、これがなかなか難しい。それを共有できるような学生たちが増えていけば、楽しみはどんどん広がっていくと思う。

 例えばNPO法人ひらかた環境ネットワーク会議で毎年2回、「バスのってスタンプラリー」というイベントをやっている。環境改善で公共交通の活性化につなげようという大きな枠組みがあるのだが、私自身は、公共交通が環境にやさしいというのは、ちょっと怪しいなと感じている。例えばプリウスはどうなのかという疑問がわく。プリウスに買い換えた人は、普通の車に買い換えた人よりも車を50%多く利用するようになったという。しかし、環境自体は改善したとしても、車依存がさらに増えてしまうことになる。その人の暮らし自体が変わっていってしまうことを思うと、そのイベントを通して、自分はどこにいるのかと感じられる雰囲気をつくっていきたい。

 イベントで出会った二人がバスの中で談笑する。こうした風景は20年前、30年前にはあったはずだが、いまや公共空間の中でコミュニケーションの場がなくなってしまった。しかし、バスや電車の車内ではあり得るのではないのか、そんな風景を取り戻していきたいと思っている。公共空間につくっていくためには、空間があり、その周りに暮らしが必要であり、支えるシステムが必要。さらにそれを先行する意識や態度も必要だろうと思う。例えばバス車内のコミュニケーションをよくするとしても、簡単なことではない。使いやすい路線バスシステムをつくるには、市民と利用者と事業者が連携して初めてできることで、仕組みづくりは大きな課題だろう。車内という公共空間をうまく使っていただけるマナーや、社会的規範などをつくり上げるのも重要だ。土木技術者は、どうしてもバスの空間だけの話をしがちだが、「かたち」や「しくみ」以外の、「こころ」の部分を再生していくような役割を担っているのではないのか。単にシステムがあるから粛々と活動するのではなく、正確なリアリティを感じながら、どんなシステムがよいのか、どんな仕組みが必要なのかに思いを巡らすような心持ちが欠かせないと思う。 空間整備やマネジメント、制度設計以外に、安い、早い、便利といった分りやすい価値観以外の、こころに通じる価値観をそのまちに住む人と一緒に地道につくっていく。そのような赤ひげ(町医者)的な人間が、社会基盤整備には必要なのかもしれない。

 

若手研究者からの問題提起
「今後の社会資本整備の方向 〜土木・景観研究者の立場から〜」 提案者:川崎雅史


 私は土木の景観を専攻しているが、社会基盤整備の方法について思うことを話したい。先ほどの松村さんの話題提供の中で「かたち」と「こころ」の話があったが、社会基盤としてのものづくりとともに、その社会資本に相応しいまちや地域、国をかたちづくること、創られた基盤の上で人は結集し、交錯し、混合する。このような人と社会、ひいてはその根源にある生命と精神を徹底的に見据えることは非常に重要だと思う。社会基盤は都市形成の一つの手段であって、そこだけで議論すると予算があるかないか、つくるべきか、つくらなければよいのかいう話になってしまう。目標像のためにどうするかが重要ではないかと思う。

 土木系を今後どうするかの方向性について、キーワードをあげてみたい。

 私が景観設計に関わった事例のうち、京都の北大路橋の景観設計で、防災、維持補修、歴史・住民の記憶、景観・眺望性、河川との一体整備に携った事例を紹介したい。北大路橋は昭和8年に架設されたもので、平成16年から耐震補強が必要だということで、維持補修とともに5年間をかけて取り組んできた。住民との懇談会で高欄や照明灯には金閣寺からの感動的なアプローチという意味合いがあると言われたが、残っている当時の写真はモノクロであり、住民の記憶も定かではない。しかし住民からは、高欄の色は金閣寺の金色がよいなどと言われる。技術者としては、サンプルを作って、実際に見せて説得することも大事なことだと思った。

 もう一つの事例だが、米原バイパスの景観デザインを検討した。環境にやさしい道路ということから、盛土構造のアーチカルバートの利用を考えた。橋のように見えるが中身は全て土だ。また、トンネル坑口付近の切り土部分にはケイ酸含有植物材を利用している。ケイ酸を含んでいると石が溶けて土壌化する。数年経てばミミズなど多様な生物が生息するようになる。土を扱うこの分野は、農学部でも分らないことがある。土木は、実践の現場でいろんな課題が広がっており、組み合わせることにより新分野、新ニーズの開拓、異分野との融合の可能性がある。つまり、現場がいかに大事かということだ。一方で、アーカイブとモバイルというか、歴史的蓄積や技術的蓄積を機動的に活かしていくことも重要だろう。 ものづくりは夢と現実の間を行ったり来たりする「知と実践の総合的営為」だと思う。ぜひともチャレンジしたい分野である。

 

若手研究者からの問題提起
「将来の交通インフラ整備に思う」 提案者:波床正敏

 私は将来の交通インフラ整備について話したい。交通基本法案の意見公募が始まった。気づいた点を紹介すると、交通権が初めて明記されている。以前にJR和歌山線利用者が「なぜこの路線だけ運賃が高いのか」と訴訟をおこしたことがあったが、ついに日本でも通路概念が導入されるのかと感じた。また、交通による環境負荷低減が明記されており、鉄道優先政策が始まるのかと読むこともできる。さらに運賃または料金の負担軽減が明記されている。国が言うからには、公的資金を導入するのではないかと期待する人もいるかもしれないが、運賃だけでなく、料金の負担軽減も明記されていることに気づかなければいけない。

 ヨーロッパでは高速道路料金が無料の国が多く、それは交通権に基づいている。交通基本法案に交通権が明記されていることは、高速道路無料化の動きもその考え方に沿ったのかとも思える。公共交通も、そうなるのだろうかと気になる。ということは、ヨーロッパ的な交通政策を日本に導入するのかと読むこともできる。インフラ整備にヨーロッパ的政策を導入するのであれば、同じ程度まで整備するのだろうか。ヨーロッパの人口が2〜3億人として、日本の人口はその半分。ヨーロッパのインフラの半分量を日本に詰め込むということなのか。「ヨーロッパに比べインフラ整備が遅れている」という論調はよろしくないとの指摘があったが、ヨーロッパ並みのインフラを詰め込むことには無理があると思う。例えば道路インフラが発達している米国、その中で住みやすいといわれるシアトルでは、まず道路面積が広い。道路や駐車場にかなりの面積をあてている。そうした国づくりを日本は目指そうとしているわけではないだろう。一方で国土面積から見れば、日本のインフラ整備はもう十分ではないかという意見もある。しかし、朝のラッシュは解消していないし、渋滞も存在している。ということは、ヨーロッパや米国でのインフラ整備手法をそのまま導入する方式は、うまくいかないはずだ。日本の国土では、道路で捌くには高密度すぎるし、別の視点からのインフラ整備が必要だろう。

 私が気になっているのは、道路や鉄道をつくるとして、その後のことまでを考えているかと言えば、必ずしもそうなっていないことだ。子供の頃の真空管を使ったブラウン管テレビは、スイッチを入れてもすぐに映らず、加温後にやっと映った。トランジスタはバイアス電流を流してから増幅させていた。また、体内の酵素や免疫は体温付近でよく働く。運動する前には準備体操で体をほぐす。このようにベストな状態にしないと、うまく働いてくれないわけだ。

 交通インフラについて考えると、道路は基本的に利用者が少ないほど便利。公共交通機関は朝のラッシュは別として、利用者が多いほど便数も増えて便利だ。両方を使える系では、どうコントロールしたらよいのだろうか。あるいは整備する場合、どちらをどのくらい整備したらよいのかといった話があまりなかったように思う。

 人口減少社会においては、短期的には道路交通量が減るだろう。鉄道も減便されていくだろう。そうすると道路は利便性が上がり、鉄道は下がる。両方が使える所では、人口減少によって鉄道利用から道路利用にシフトするようになる。人口減少で道路が空いてくるというのは幻想かもしれない。場合によっては道路容量の削減をした方が社会的に良いという可能性もある。鉄道等ではそれを防ぐためにも、より一層の機能向上を図る必要がある。人口が減るのだからインフラ整備は必要ないといった考え方は、適切ではないと思う。

 こうしたことは行政の計画に基づいて行われていくが、気になっていることとして、学校では交通計画や都市計画の教科書が道路を基本として書かれている。それは外国から移入された概念が多いからだと思うが、日本は欧米と状況が異なっているため、考え方を変える必要があるのかもしれない。そして様々な面で道路政策が優先されている。ロジックとして、「産業振興が欠かせない」→「産業には物流」→「物流にはトラック」→「トラックには道路が必要」。結果として道路整備が優先し、自動車に甘い土地利用になっているのではないのか。こうした観点から見ても、長期間にわたり放置されてきた「鉄道利用物流システムの開発」なども考えていくべきではないかと思う。


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