序章「戦後の社会資本整備を概観する」

(岡村)

 序章として、「戦後の社会資本整備を概観する」をテーマとして始めたい。序章は当初、地域デザイン研究会メンバーの三人からプレゼンテーションを行うことになっていたが、その1人、岩本さんが入院することになり、本日は二人から発言していただく。

「社会現象を反映した社会資本整備」 話題提供:平峯 悠

 切り口・方向性としての問題提起をしたい。大阪市OBの岩本さんから「我々の仕事は空気のようなもの」と題する資料が出されているので、そのことにも触れたい。

公共事業・社会資本整備の評価

 私たちの業界では、公共事業や社会資本整備が住民に受け入れられていないため、どうしたらよいのかと一部の人が言っている。社会資本はまだ世の中に不足している、ヨーロッパに比べたら全く不足しているからやるのだという。公共事業の必要性が、国民に理解されていないとも言う。

 私自身は、間に合っているものは間に合ってと思うし、一部で不足してはいるものの、必ずしも遅れているとは思わない。そんなことを言っているから、市民からは、亡者のようだとか、過去の延長上にやっているのではないかと思われてしまう。

 また、過去の偉大な人、例えば京都疎水を造った田辺朔朗さん、台湾でダムを造った八田與与一さんらの実績をあげて、土木は素晴らしい、こうしたことをやらなければならないとして、その実績を引用する。それは間違っていると思うし、その時そのときの偉大なことが、今のこの時にそのまま通用するとは思わない。

 常に社会の現象に反応し、それに対して何かをつくっていくことが、私たちの仕事の本心だと思う。実務に携るものは、いま起こっている問題をどのように解決し、未来にどうつなげるかが基本であるべき。

 だから、岩本さんが言うように「我々の仕事は空気のようなもの。過去の時代から大阪市は、街を災害から守る。区画整理をして皆の力を借りる」。こうしたことによって街を皆の力でつくってきた。それを今、誰も意識していないというのは、「空気のようなもの」だからであり、それでいいのだ。そうした謙虚な気持ちがなければ、公共事業、社会資本整備を声高らかにやってみようとしても、受け入れてはくれないはずだ。

 何が問題なのか。土木工学・建築工学的にはよくなったが、自然に対して謙虚であったのか日本の文化に対し謙虚に反応して社会資本整備をしてきたのか。反省をしてみて、それらに対してどうだったかが評価されるべきであり、過去の延長上でやろうなどとは私にはどうしても思えない。

 過去を引きずっていると、次の理念が見えず、混沌としてしまう。だから、どこの切り口からでもよいから、新しいものを生み出していく姿勢が重要だろう。

街づくりの時代背景

 街づくりの経緯を振り返ってみたい。「まちづくりの時代的背景」と題する年表を作成してみた。
「まちづくりの時代的背景」

 私が二十歳のときが1960年で、それ以降の50年間をまとめたものだ。若い人はその経緯を言葉では知っていても、体験がないから実感がわかないだろう。例えば話題になっているLRTを活用したまちづくりでも、やろうとして現地に入ると、なかなか受け入れられない。堺市でも計画は飛んでしまった。全国でも富山市が何とか頑張っている程度で、そのほかの都市では導入できないでいるのは、なぜなのか。それは1960年代に交通戦争という大都市問題があり、ヨーロッパは自動車の扱い方について議論し、問題点を洗い出し、その結果としてLRTの活用が盛んになった。しかし、日本では車問題の議論をせずに車社会のままでここまできたため、今になって車の扱いとLRTの問題を考えようとしても、ものすごいギャップがあるわけだ。

 当時の大都市問題(スプロール、交通戦争、公害問題)を理解したかどうかが重要なことと言える。私たちは当時、大都市問題を理解した上で都市の骨格をつくろうと、この問題からテーマを選んだ。それ以降、1970年代までに大まかな大阪の骨格ができた。足らないという議論でなく、骨格に少し手を加えていけば必ず大阪は良くなるという思いで仕事をしてきた。骨格ができてから既に30年が経ったが、その間に何をしてきたかと言えば、アメニティ、都市景観、豊かさ指数、地区計画などを拾っていった。それは過去に行ったことに不都合が生じてきたためで、重点を変えて修正を加えてきたわけだ。

 その中で将来への理念づくりであるマスタープランについて、「つくる」「つくらない」の二通りの議論があった。国はマスタープランを「つくりなさい」と強調したが、私たちは「つくらない」と主張した。マスタープランでお題目を並べても誰も信用してはくれないからだ。豊かな生活を保障し、文化・伝統を守る都市をつくる、住みやすい街をつくる。じつはこれらは当たり前のことであって、理念になっていないというのが私自身の思いだった。「まちづくりの時代的背景」(年表)を作成してみて、もっと別の角度から街を見ていくことが大事なことだと感じている。

これからどうするか

 これからどうするかの1つのヒントが「阪神淡路大震災の教訓」の中にある。大震災は、私たちが30年以上やってきたことを、いっぺんに覆してしまったからだ。これからの社会資本はどうあるべきなのかに関連して私自身が思っていることは、若い人でモノをつくることが好きな人は土木・建築系の世界に入ってきてほしいということ。仕事はまだまだいっぱい残っているはずだ。それをつくり上げるために「破壊と創造」の考え方が欠かせない。過去のものを崩さなくて新しいものができるはずがないのであり、前のままでなく、いちど破壊した上で創造していく姿勢が大事だと思っている。

「戦後の社会資本整備を概観する」 話題提供:片瀬範雄


 私は、神戸における戦後の都市開発がどのようなかたちで阪神淡路大震災と関連していたのか、そして今後の問題点について話したい。

 戦後の社会資本整備が、阪神淡路大震災時に果たした減災効果

 戦後の社会資本整備が、阪神淡路大震災時に果たした減災効果として7点が挙げられると思う。

  1. (戦災復興区画整理事業や都市改造事業)
      1995年1月17日に発生した震災直後の3日間をかけて、神戸市職員が被災調査をした。図面を示す。紫色表示は倒壊家屋、赤色表示は集中的に火災があった地域である。
     この図面と戦災復興区画整理事業区域図を重ねると、戦後に都市整備をしてこなかった空白地帯が甚大な被害を受けている。つまり戦後の社会資本整備を行ってきた地域は、倒壊家屋はあったものの、被害は少なく済んだ。
     
  2. (蜜集市街地の分散のためのニュータウン政策)
    神戸市は戦後に六甲山系の西側と北側を合併し、市域を約10倍に拡大、密集市街地の分散のためのニュータウン施策をとってきた。ニュータウンでは住宅をつくるだけでなく、研究施設や商業施設、流通・生産機能など様々なものを整備してきた。切り取った山の土砂を港湾地域の埋め立てに活用、コンテナ輸送に対応できる港づくりを進めてきた。その結果、市街地人口は旧市域5割、新市域5割という構成比となった。ニュータウンという土地利用により、火災の延焼を防ぐ街路や公園整備も進んだ。建物についても新耐震基準による建て替え、人口の分散が図られた。もしも戦後の都市開発が行われていなかったら、震災による被災者数は莫大なものになっていただろう。阪神・淡路大震災の発生は、減災都市に向けた取り組み途中だったわけで、それが完成していれば被害はもっと少なかったのではないかと思う。
     
  3. (インナーシテー地域のまちづくりの着手)
    新市街地への移転は若年層で、旧市街地の戦前からの長屋や文化住宅などがある老朽木造密集住宅地は、どうしても経済的に貧しい高齢者層が多く、インナーシティの問題が山積するところであった。建物の90%以上は木造の古い家が倒壊し、亡くなった人も60歳以上が59%と弱者に対する被災が大きかった。一方で戦前の耕地整理でつくった公園が、火災の延焼防止に大きな効果を発揮した事例もある。
     
  4. (代替交通施設整備)
    震災当時、市街地の道路、鉄道など交通機能が発揮できなかった。私たちはニュータウンをつくる際に、六甲山北側との連絡網として主にトンネルをつくっており、震災時の救援物資は北側から入れることができ、代替交通施設整備の大切さを痛感した。
     
  5. (開発余剰地の効果)
    延べ270haの土地に約3万戸の仮設住宅を建設したが、市街地の公園には大きなものがないため、市街地から遠い西地域や北地域につくった。コミュニティの分散だと批判もあったが、仮設住宅にあてた延べ270haという広大な土地はニュータウン化を行ったからこそ確保できたのであり、何も目いっぱいの土地利用が都市ではないと思う。余剰地の在り方について、多面的に考えるべきという教訓が得られた。
     
  6. (住民主体のまちづくり)
    また、従来は公共側が提案し、市民が参加するというかたちの公共事業が進められてきたが、震災当時には住民側が参加して計画をつくり、公共が整備の支援をするというかたちに変わっていく時期にあった。木造密集住宅地域の真野地区でも、約30年にわたってまちづくりを進めてきたため、震災当時も住民と企業が一体となって初期消火などに対応し、壊滅的破壊を防止した。ソフト面の対応が働いたわけだ。そうした中で復興のまちづくりを進めたが、これも1981年に神戸市まちづくり条例を定め、地域と一緒にまちづくりを始めていたことが奏効した。その素地があったからこそ、今回の復興事業では第一段階で区域と骨格的な道路等を定め、それ以降は地域の方々で構成されたまちづくり協議会の提案に基づき、第二段階都市計画を実施するという方式を採用することができたといえる。
     
  7. (新産業の導入で生活再建)
    市民生活の復興では、バブル崩壊時期とも重なり、東南アジア諸国と競合関係にあった中小零細企業への影響が大きかったため、経済面での復興が非常に大事なことだった。港湾機能が全滅し、交通施設も崩壊したため、多くの企業は神戸から離れていった。従来の産業構造のままでは厳しいということから、神戸市では医療産業構想都市を打ち出した。誘致活動に全力を挙げ、現在ではポートアイランドに170社にのぼる内外からの企業が進出した。人、もの、情報が集まってくるということから、観光集客都市としての窓口としての神戸空港もつくった。

 空港問題について一言だけ触れたい。じつは1970年から80年代にかけて関空は神戸沖にほぼ決まっていた。しかし当時の公害紛争問題の中で、神戸市長、神戸市議会ともに反対決議をしてしまった。現在の空港問題は、その時点に端を発していると私は思う。あれは神戸市の戦後唯一の汚点とも言えるし、将来を見越した多角的で冷静な判断の大切さを教えてくれた事例ではないのか。21世紀の関西地域の地盤向上のために、若い人たちの多面的な予測の下で「災害に強いまちづくり」をつくっていただきたいと思っている。


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