個別講演(4)

大阪市高速鉄道網計画(梅田関連)策定の経緯

多田英司氏(阪神電気鉄道(株)技術顧問

 梅田の3駅ができた経緯を中心にお話しする。大正14年に高速鉄道の当初計画路線が策定されている。大阪は大正時代には急速に市街地が拡大し、それに対応する鉄道計画が必要となった。当時は、梅田は国鉄、私鉄と十分鉄道が発達していたし、路面電車が市街地を走り回っていた。これらと有機的に連絡する総合交通体系が必要であろうと言われた。そして、都市計画上の配慮と交通量調査を基に、鉄道省、内務省、大蔵省、大阪府、大阪市で協議を重ね、大正14年に計画路線が策定された。これが今日の大阪の地下鉄の基本になっている。

 基本方針のひとつは、大阪は中心と郊外を結ぶ需要があるため放射状路線を基本とし、中心部は分岐をなくした効率的な路線にしていこうとした。路線は主要街路またはこれに近接して設置し、道路及び市電やバスとの連絡を良くしていこうとした。そして、市内の主要地点間にはなるべく1回の乗り換えで行けるようにしようとした。そして当然、他の鉄道や重要施設との連絡を便利にする。

 これら基本方針に基づいて計画路線を作っていくが、梅田は既に国鉄東海道線、城東線、西成線、阪急線、阪神線が集中する大ターミナルであり、4路線のうち第1号線、第2号線の2路線が梅田に接続している。第1号線は現在の御堂筋線で、北は神崎川北側の榎阪から南は我孫子町まで、大阪の都心部を南北に貫通し、梅田、難波、天王寺の各ターミナルを結ぶ高速鉄道網の中心路線。第2号線は現在の谷町線で、京阪線の森小路から梅田を経由して松屋町を南下して天王寺に至る路線であり、1号線の補助路線的なものとして計画された。第3号線は大黒町から分岐して玉出に至る路線で、中心部では分岐は避けていたが、郊外では分岐して広範なサービスに繋げていくということで、国道26号沿線と都心部を結ぶ分岐線である。第4号線は現座の中央線で、大阪港から中央部を東西に横断し、今里を経由して平野に至る路線で、港湾地域及び南東部住宅地と都心部を結ぶ東西幹線である。

 梅田に関するものとして大きな関わりを持ってくるのは昭和38年に行われた急成長期における計画路線の策定である。策定の背景は大阪市の人口が300万人を超え、ラッシュ時の地下鉄の混雑はひどいもので、200%、300%の混雑率と言われたこと。同時に自動車の増大により路面交通の混雑が生じていることにあった。

 基本方針は8つあるが、梅田に関わる路線についての重要なものとしては、乗車効率が200%を超えるものは新線建設または線路増設をする、混雑するターミナルへの旅客集中を回避する、の2点である。

 このような基本方針で6路線が策定された。昭和38年時点では1号線は梅田・我孫子町間、3号線は大国町・玉出間、4号線は大阪港・弁天町間が開業していた。梅田に関する計画路線としては3路線が計画されている。

梅田周辺の路線整備を振り返ると、
明治7年 国鉄 大阪・神戸間開業
明治9年 国鉄 大阪・向日町間開業
明治28年 大阪鉄道 大阪・天王寺間開業
明治31年 西成鉄道 大阪・安治川口間開業
大阪福島間の旅客営業は明治32年
明治38年 阪神 出入橋まで開業
明治39年に梅田まで延伸
明治43年 阪急が開業
大正14年 新京阪が開業
そしてやっと昭和8年に梅田・心斎橋間の御堂筋線が開業。
昭和39年 梅田・新大阪間開業
昭和40年に西梅田・大国町間が御堂筋線の混雑緩和として開業。
昭和42年に東梅田・谷町4丁目間が開業。
昭和44年には堺筋線が阪急乗り入れで開業しているが、この辺は万博を目指して整備してきたもの。
昭和49年には谷町線の梅田より北側が開業し、平成9年にはJR東西線が開業し、現在の姿になった。

 梅田3駅の位置について、梅田駅は国鉄大阪駅と一体のターミナルとして設置し、東梅田駅は梅田駅と同時に計画したもので、梅田駅に近接して設置している。西梅田駅は1号線の混雑緩和が目的であり、設置可能な空間が四つ橋線だけであり、当時から将来の北部延伸が考えられていたため、それらを考慮して国鉄、阪神に近接して設置している。

 参考に、地下鉄3駅の乗降客数は約73万人で、JR大阪駅に次ぐ規模となっている。3駅があったことで梅田の発展に非常な貢献できたのではないかと考えている。

 大阪市交通局としては、安全・確実・迅速・快適・低廉を都市交通の履行原則であるが、そのうちの3要素の、移動のしやすさ、心地よさ、連続性を目指しているなかで、梅田各駅の分散の利便性を保つため、その間は自由に乗り降りができるようにしている。


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