ラウンド2 ディスカッション

 交通の問題について
 
(松尾)
 都会暮らしの中で、車はいらないと思う。まちを汚すようなことはやめて、出来れば自転車で、職場まで行って、帰れるような、まちづくりの方が大事だろう。
 
 触れあいについて
 
(ラウラ)
 触れあいはとても大切。カルチャー倶楽部などで、友達は見つかるが、集まる場所がない。
 祭りがあっても、あまり人が触れあわない。不思議と思う。
 ヨーロッパには、広場(イタリアでは、ピアッツオと言う)があり人が集まる。これはとても大切なことで日本のまちにはないような気がする。
 
(松尾)
 日本は決まった席に座って食事をする方が、ビュッフェ形式よりは気楽に食事できるということで、好むのだと思う。だけど決まった席なら決まった人としか知り合いになれない。いろんな民族、いろんな暮らし方をしている人が増えている関西で、触れあえる場所を作ってほしい。
 御堂筋パレードの時、5キロの区間参加したが、両側の見物人は、おばあちゃん、おじいちゃんだけ。若い人は全くいない。見物人はただじっと見てるだけ。すごく気持ち悪かった。ちょっと止まって、そこら辺にいてるおじいちゃん、おばあちゃんを誘って、一緒にタイの踊りをしたりする方が、触れあいが出来るのではないか。
 
(平峯)
 御堂筋パレードについて、反論とか?
 
(岩井)
 例えば私どもがお世話したフロートだと、スポンサーからもたくさんの職員、私どものスタッフ、その家族、近所の人のお米やさんのおばちゃんから全部そこに来ている。実は、隠れたところで触れあいがたくさん起こっていた。観客の方は、朝7時頃からグランドシートを持って場所取りに来てるので、一旦場所を離れると大変だということもある。
 近所の人とか、知ったところの子供が通ったとか、一人一人はそれなりにコミュニケーションを持って楽しんでいる。
 昔で言えば、川堤の花見みたいなもんで、向こう通っている人とやっぱり楽しんでいる。昔の天神祭りの落語など聞いていると、必ず、橋の上から見ている人と、船で通る人とが掛け合い漫才みたいにしゃべっていた。そういうことは今の商業化された中では、も一つないようだ。商業的になったということが、一つの大きな原因ではないかと思う。地元の中では、ちゃんとコミュニケーションがとれているという現実もある。
 
(松尾)
 それは、決まった席でのつき合いであって、見たことのない顔との対話がないということではないか。
 
(岩井)
 観客同士は対話しているみたいで、全然知らない人とも、いろんな話をしていて、それはそれで、楽しんでいるようだ。
 しかし、特にパレードに参加したいという意向ではないようだ。
 
(松尾)
 もっとビュッフェ方式で、移動しながら、お祭りに参加できたら、10人ではなくて30人でも知り合いが増えるかも知れない。
 
(岩井)
 その辺になると、日本の管理社会みたいなところが出てくるんだろう。
 祭りさえも管理しないといけないというような、整然とシナリオ通り動かないと承知できないというようなことがあるのではないか。
 
(平峯)
 ああいう形態の祭りが日本では多い。
 見る側と、やる側と割合はっきりするというようなことがあるが、祭りの形を変えるか?
 
(正木)
 境界のない社会に慣れていない感じがする。
 日本人そのものが、昔なら、目の前の障子を開けて、道に机を出して、将棋を打ってたり、縁台に腰掛けて、必ずしも顔見知りでない道行く人と話をしていた。
 急激に生活様式が変わって、例えば、家の建て方も、ドアを入ったら、あとは、外を歩いている人とは話出来ないように変わった。生活様式が西洋式に変わりつつあるところで、西洋式のパレードの様なものについていけないのではないか。
 昔のお祭り、例えば盆踊りでも、生活様式の変化と盆踊りのやり方とがついていけなくて、限られた人しか参加していないのではないか。
 一方で、西洋式のお祭りにもついていけなくてということで、今お祭りに関しても生活に関しても全部過渡期かなと思う。
 
(ラウラ)
 京都にも祭りがある。祇園祭とか。すごく奥深いイベントといえる。ただ見ているのはもったいない。そういうときに、やっぱりふれあいは必要。
 日本人は、外国人に向かって、積極的に「私の国の文化はこうですよ」と言うことが苦手だと思う。そういう努力もした方がいい。
 
(ルーチェ)
 私は、さっきから聞いていて、都会の祭りと田舎の祭りの違いじゃないかと思う。私は田舎に住んでいるから、ふれあいはある。中には参加しない人もいるが、ほとんど参加する。
 
(平峯)
 日本の女性として、いろいろやっておられるお二人は、ああいう祭りに積極的に、参加するというところまで行くか?
 
(岩井)
 私は参加しようとは思わない。震災でたまたま枚方の津田にいたときに、盆踊りをされていた。田舎のお宮さんの森の中で、かなり暗い、裸電球の照明が二つ三つついてるだけで、河内音頭をずっと踊ってる、ちょっと入りにくい空気があった。日本人にとっても、違う村、違うまちに行ったときは、やっぱり入りにくいという空気がある。
 例えば、九州とか四国の人が大阪へ来たとき、大阪自体がすごく排他的で、入って行きにくいまちだと言われる。
 
(松尾)
 お祭りは、必ずしも踊りだけではないと思う。音楽とか踊りを楽しむ場所、芸術作品を発表する場所、社会に対する意見を発表する場所、屋台でグルメ的な祭り、何でもあっても良い。それぞれに興味のある人が参加すればよい。特に、若い人の関心は多様だから、多様な関心に合わせて、祭りを作っていったら良いと思う。
 
(平峯)
 祭りは、昔の日本の祭りから、新しいふれあいを求めるというイベントに持っていくということは、まちづくりの一つのテーマではある。これについて、フロアからご意見なり、ご質問なりがあれば。
 
(フロア)
 天神祭りを毎年見ているが、川はたくさん舟が行き交って、その舟の上で踊りがあったり、三味線があったり、歌を歌ったりしているが、周りに出ている観客と全くかけ離れている。
 今は全部、動力船で舟を引っぱっているが、いろんな人が参加するというのが基本だと思うので、日本の木造船の技術を保存し、再興すると意味も込めて、手こぎですると良いと思う。
 個人も、今はやりのカヌーなんかも参加できることにしないと、周りの人が全然面白くない。毎年出し物がワンパターンで決まっていて、新しい催しがない。
 最近全国で、高知市とか北海道でも、テーマの音楽だけは決めて、若い人がそれぞれの踊りの振り付けをするなど、いろんな工夫が出てきている。どうも大阪では、一番面白いはずの祭りが一番管理されて、一番大阪らしくない祭りになっていると思う。
 
(フロア)
 私は、奈良に住んでいて、「祭り」というと目がない。
 恩田祭りとか、奈良には非常に面白い祭りがある。
 2月11日に、近くで「砂かけ祭り」いうのがある。川の集まるところに、昔の寛平神社があり、そこで、砂をお互いかけ合う。ただ単に見ている人にも、砂をかけていくと、それで、向こうからもかけてもらう、その砂が、五穀豊穣の雨というイメージだが、そのような、触れあいのある祭りもたくさん有るので、外国の方にも理解いただきたい。
 
(正木)
 お祭りというテーマでも、パレードという決まったものを「見る」祭りと、参加できるような祭りもある。
 今の神戸祭りは参加できないが、若い頃は港祭りといって参加できた。港祭りの音頭が流れたら体がついていけるように、小学校で毎日体操の度に踊りの練習だった。
 今は、御堂筋パレードに参加しようとしても、かなり特殊な能力がないと参加できないので、教育問題もあると思う。
 
 歴史資産について
 
(平峯)
 デル・ペッシュさんが町家とか歴史といったものに対し、それを破壊することは犯罪であるとおっしゃった。他のみなさんはどうか?
 
(松尾)
 歴史を大事にして、まちに具体化するのは、ある程度余裕がないと出来ない。アジアの国々はまだそこまで余裕がない。どの民族も歴史を大切にしたいが、残念ながら予算がないために、歴史遺産等をそのままの状態にしてしまっている。東南アジアの人は、歴史を大事にするというより、現在を大事にするという傾向がある。タイに限って言えば、おじいちゃんまでの代は言葉があるが、ひいおじいちゃんとか、その上のおじいちゃんに対する言葉がない。自分の先祖がどうのこうの、出身がどうのこうのとかこだわらない。
 
(ルーチェ)
 アメリカは、あまり歴史がない国だがらもう一つぴんとこない。
 日本の建物とか日本の文化はすごく良いので、大事にしてもらいたい。歴史について今の若い日本人は分からないから、教えられない。
 田舎に住んでいるから、年寄りはいろいろと歴史のことと等を喜んで教えてくれる。。
 西洋ばっかりあこがれているのではなくて、自分の国、自分の国の文化をちゃんと分かって、守ってもらいたい。
 
(ラウラ)
 町家に実際入れてもらったが、そのとき、「もう少ししたら潰れてしまうので、今のうちに写真とって下さい」という。ショックだった。
 ローマで、1600年代の建物が壊れたら、ローマ人は革命を起こすと思う。町家に限らず、この場所にはこういうことがあった、という一つのサインでも、消さずに、残して、大事にしてほしいと思う。
 
(松尾)
 日本では、歴史資産の保存運動とか盛んだが、不思議なのは、例えば仏像が伝えようとする仏の心を理解出来る人がどれだけいるかだ。形だけが残っていても、形の中にある大事なものを忘れてしまっている。そういうことも復興しなければいけない。

(平峯)
 まちづくりというときに、今までは道路を造るということになると、今の古い道路の両側を全部用地買収して、町家とか100年ぐらい建った建物でも壊してきた。それを、正木さんは、道路の計画決定してそれを実行すると立場にあって遺産をつぶしたのではないか、ということで、犯罪者と言われているがどうか。
 
(正木)
 もう少し古い方の文化で、文化財という問題がある。昔の人は、季候、自然風土のいいところ、水もあり、太陽もあたり、食べ物もすぐそこら辺にある、という非常に良い所に住んでいたはずで、そこに今の人たちが住みたいと思うのがあたりまえと思う。
 古い文化財の場合は、むかしの人の遺産を守るために、今の人がどこまで我慢すべきかと、疑問に感じる。
 町家については、イタリアでは、家は石で出来ているから古いものでも残るのではないか。
 日本は、木と紙の家だから、その中で、木は例えば法隆寺のように、1000年保つといわれているが、一般の人の住む家は、寿命が短い。
 町家というスタイルは守るべきかも知れないが、要るものは要る、壊すものは壊さないといけないと思う。
 
(岩井)
 日本人の気質に、新しいものをより良しとするような気持があるのではないかと思う。
 大和桜井の駅前の商店街をリニューアルして、ヨーロッパ何とか通りという商店街になっているが、元々は壊すことにもめたた。建て替わって新しい家になったときに、ほとんど全員が「ああすーとした」と言った。
 歴史の重みを感じながら暮らさなければならないということが、あまり好まれないという気質があると思う。
 また、維持管理に手間暇がかかる。その手間暇のほとんどが、女性に委ねられているということにも、新しい家を望む要因になると思う。
 町家と言われるほどにいい家屋だと、豆腐のおからを布袋に入れて、毎日毎日、柱も全部こすらないと、艶が出てこないと思う。全部主婦がやらなければいけない。
 それじゃ私は何なんだ、この200年ほど経つ家の 30年分ぐらいを磨くためにだけ生まれてきたのかという話になると、あまりに気の毒。営々として、何代も同じことをして、繋げていくことに意義を見いだすより、自分のこの何十年かの間の人生に意義を見いだすというような生き方もあるんではないかと思う。
 特に、今回神戸で震災が起こってからはほとんど工業化住宅になって、日本の瓦屋根の風景はなくなったけれども、女性はとっても喜んでいる部分があるような気がする。その中には、自分は、震災で拾ったようなもの。あそこで、だめになってもしょうがなかったかなと。
 その中で、まちの空間に対する価値観も変わったと思う。手間暇をかけて、家を磨くことにエネルギーを使うのではなくて、自分を生かそうという方へ、時間を使いたいと。
 まちづくりのコミュニティボードへ、女の人がたくさん出てきているのも事実。昔は、町内会のいろんな役員をお父さんに任せていた。
 
(平峯)
 デル・ペッシュさん、イタリアでは、その歴史を守るために、まちに住んでいるみなさんが、どのようにことをやるのか。
 
(ラウラ)
 ローマでは、建物を建てようとすれば、まず市役所へ行って、許可を申請する。そのときに、風景に合わなければいろいろ言われる。
 
(松尾)
 タイには、寺院がたくさんあって、バンコクだけでも200以上の寺院がある。
 昔、寺院に盗難がよく発生していたので、ある王様が、法律を制定した。寺院はみんなのもので、寺院に何か発生したときは、寺院周辺2キロ半の人達が責任を持たなければならない、というものだった。
 要するに、歴史遺産はみんなのもので、近くに住んでいる人が守らなければならない。という発想だと思う。今はそんな法律はない。
 
(平峯)
 アメリカの場合どうか? 歴史は新しいと言いながら、それでも相当な年月が経っている。
 日本では、西洋化したのが明治からだから、明治の建造物もたくさんある。百年から、百二三十年前の明治の建物が問題になってきている。アメリカの場合はどうか?
 
(ルーチェ)
 アメリカという国は、開拓者の国だから、東から西へ進んできた。だから、東の方が、一番古くて、だいたい200年ぐらい前か。そのへんの建物でこれは残しておかないとだめだ、というものはある。
 西へ行くほどそういうものがない。西の方では、自然を大事にする。この建物を壊したらだめ、というのはないが、この木、ここの林、この森を壊したらだめ、というのはある。西の人は、自然が国の宝という気持ちがあるから、それについての法律がある。
 
(平峯)
 日本の場合は法律や都市計画で決めようとすると、いろいろ意見が多く従ってもらえないので、そこまで制限をしない。
 みなさんの国では、そういうことを決めようというときに、みんな従うのか?
 
(ラウラ)
 勝手に建てる人もいるが、そういうところは住みたくないと思う。お金がない人は仕方なくそこで住むかも知れないが。
 
(平峯)
 そういうことで、うまくバランスがとれると思うが、日本の場合は、全然そういうことはやらない。いろいろ文句があれば大変だから、制限しない、となる。
 
(岩井)
 日本の場合、バラバラで日本らしくない、そういいうのを建てる人というのは、よっぽどのお金持ちではないか。むしろそういう人に多く問題があると思う。
 ルーチェさんから、自然は宝物だというお話があったが、日本の人は自然は宝物と思っているのかなと、疑問に思う。
 自分の家の中に抱えていられるようなものは、自分の宝だと思っているけれど、抱えてないような自然とか、まちの風景とか、パブリックな空間に対して宝だとは思ってないんではないか。その辺に問題がある。
 
(フロア)
 神戸にモスク(モスレムモスク)というのがある。新聞によると、ちょうど西側に9階建てのマンションが建ついう。法律的には問題ないが、モスレムの人から大きな反対が出ている。しかも、建設している不動産会社は、まちづくり協議会の役員。何かいい方法、アイディアはないか?
 
(ルーチェ)
 市民が反対することはアメリカ人らしい。アメリカの場合、法律の作り方が日本と違って、市民主義だから、みんな一緒に法律を作る。とりあえず提案があって、選挙の時、これを法律にするか、しないかとか、必ず選択しなければならない。法律が決まったあとでも、良くないということになれば、運動が起こる。市民が声を上げて反対する。それで影響することは可能。
 
(松尾)
 法律で守ろうとしても、守ることが出来ない。
 モスクなど文化遺産が、何を人々に伝えようとしているのか、ということを根本的に理解しない限り、こんなばかげた話が出てくる。
 
 団地リニューアルに市民の声
 
(フロア)
 枚方市で、枚方まちづくりという市民団体のメンバー。
 先ほど平峯さんが、日本では、法律で規制しようとしても、みんな意見が違うからうまくいかないとおっしゃったが、私は逆だと思う。
 日本の法律はむしろ、建物を造って壊して、また造って、それをすることによって儲けている人達の意見がすごく影響力があって、普通の一般市民はなかなか表に出て行かない。
 例えば、うちの近所で高層マンションが建つことになる。ほとんど建て始めてから、「大変だ」と思うが、それから言い始めても、もう建ってしまう。法律ではOKということ。
 先日、近くの香里団地を、まち探検をした。
 西山夘三さんがデザインした古い30年代に出来た団地。やっぱり、古い良いもの、すごくゆとりのある、何とも言えない空間がある、古い大きな木がある団地で、それを見ると、みんなは良いなあ、と思う。しかし今、建て替えの真っ最中で、高層の15階建てくらいが建ってきている。誰が求めているのか。住んでいる人の意見が入ってないのではないか。
 
(平峯)
 今までを反省するのか、市民のみなさんの意見は、声として表に出てこないということもあると思うが、正木さんはいかがか。
 
(正木)
 市民の声には何種類かあると思う。声なき声、声があっても聞こえない声、聞かない声、聞いてもどうにもならないとか、いろんな場合がある。
 高層マンションの例では、住んでいる人の便利さと、困っていることと、いろんな問題があると思う。
 団地で問題になっているのは、「狭い」ということの他に、電気の容量が足りなくて、全部やり変えないといけないとか、本当に20年、30年で、生活様式が完全に変わったから、今では使いにくいということもある。そこに住んでない人が、そこを散歩すると、非常に環境はいいと思うけれど、暮らしている人は暮らしやすいかというと、また違う問題がある。
 要は、そこで建て替えるときに、その目標はなんなんだと、どこに重点を置いてやるかという視点によって違ってくる。
 先ほどの、モスクの横に、高層マンションということについては、私自身は遺憾に思っている。特に寺院の借景の問題がある。
 マンションの場合、最初に建てたマンションには借景の権利があって、次に建てる方にはその権利は無いのかと、その辺、公平性に欠けるのではないかと思う。
 昔からある文化財としての寺院の借景というのは、守るべきだと思う。
 同じ借景の権利といっても、見方が違う。
 
(松尾)
 行政の方で、あらかじめ指定しておくことはないのか?例えば、絶対途中から建て替えたりしない所というように。
 
(正木)
 建て替えが永遠にだめというのはないが、歴史のあるものだったら、建て替えるときに、そういうことに気を付けて建て替えなさい、ということはある。
 「伝統的建造物群保存地区」として、都市計画で決めることは出来るし、みなさん方で話し合って、地区計画で、決めることもある。
 
(松尾)
 例えば、この建物は、70年80年使うなら最初からそのように造って、ここは、70年80年経つまでは、絶対に建て替えてはならないというような決め方はしないのか?
 
(正木)
 そこまではない。例えばコンクリートだったら、計算上は、70年80年保つということになっているが、香里団地の例では構造本体は保っても、広さが足らない、設備や電気容量が足らないとか、生活様式が2,30年で変わるとすれば、その段階で建て替えるか、すこし増して改修するかということになってくる。
 むしろ、70年、80年も絶対さわってはいけないというのは、住む人にとっては、大変なこと。
 
 まちづくりへの参加について
 
(平峯)
 皆さんの国の人々、女性がまちづくりにどう参加参画しているのか。
 例えば道路、ゴミ焼却場等を作る場合、どう反映させるのか。
 
(ルーチェ)
 アメリカの場合、"Petition"がありサインを集め、市役所にその声を伝える。沢山の人の意見があれば無視できない。効果的なやり方と思う。
 
(ラウラ)
 イタリアにも"Petition"がある。
 
(松尾)
 バンコクでの流行は“ビレッジ”といって一遍に何ヘクタールかを業者が開発して、家を何百、何千と建てる。どんな施設を作るのか、防災システムはどうなっているのかをあらかじめPRする。
 家を買うとは、土地・システムを買うことである。日本人は家・マンションを買うだけで、街を選ぶという考えはない。
 
(岩井)
 市民がボーとしないことも大事だ。仕事でアンケートしても答えが返ってこない場合が多い。
 ほとんどの市民が街空間に対して意識していない。市民が育っていない。家だけ見て街を見ないことに繋がっている。計画的なまちづくりに空気がないことに繋がる。
 
(平峯)
 日本の場合、署名の数と政策の決定は違うだろうと思う。住んでいる人の意見をどう反映するのかは重要なテーマ。
 
(正木)
 署名の数ではなく、書かれたものの見方がなんであるかが大事。
 これから市民は育つだろうと期待している。第2世代に入っており、今の都市の状態があたり前で、施設をもっと良くしようという観点でものを見ている。
 女性の参加
 
(フロア)
 日本の場合、都市計画への女性の参入が少ないことが問題と思う。男性は夜しか帰ってこない。24時間いる女性の方がそのまちづくりを積極的に考える。ただ、その女性が意思決定の場に参入する機会が少ない。行政は都市計画の委員にもっと女性を入れてほしい。
 
(フロア)
 今私は神戸の再開発や共同化ビル事業を行っているが、住宅やまちづくりの内容を最終的にチェックしたり現実に決めているのは日本でもほとんど女性である。
 
(フロア)
 実際に女性が決めるとしても、前提に問題があるのかを整理しているのは男性である。
 
 日本の暮らしについて
 
(平峯)
 外国の皆さんは日本を住み良い、暮らし易いと感じているのか。
 
(ルーチェ)
 田舎に住んでいるので注目されるから暮らしにくい。日本は管理社会、アメリカは自由でありすぎる社会。
 言い切れないほど管理されている。女性であるから軽くみられる。この時代に未だ残っているとは思わなかった。住みにくい国である。
 
(ラウラ)
 ローマは住みにくい。私にとっては日本は便利で、ちゃんと管理されているから住みやすい。
 ただ、日本は生活は豊かとは言えない。文化を大事にすればもっと生活が豊かになると思う。
 
(松尾)
 日本は便利で安全だけど、チャレンジ精神が生まれなくて面白くない。日本は外国人になかなかチャンスを与えてくれない。特殊な専門技術、日本人にできないような仕事を外国人にやってもらう、やらせる以上、外国人が住み良い社会にはなれない。
 外国人留学生が日本に来ないか、来ても就職先が無い。生活費も高く、勉強の期間も倍なので、アメリカへ行った方がよい。アメリカはあらゆる人にチャンスを与える。
 そこに暮らしている人達のためにどういうまちづくりをすべきかを考えるべきである。
 
(正木)
 心を伝えることは形ではなく何を伝えようとしているかを考えるべき。今まで形を求めることが多すぎた。ハードとハートを一緒に考える事が大切。
 国際化とはハードだけを整備することではない。
 
(岩井)
 街の空気を感じとれる制度がないことに問題がある。まちづくりはまだまだ男性社会。男女の間に大きな壁がある。
 まちづくりに関していえば一般市民と作り手の間の壁が高い。ただ、壁を外せば手放さなければならないものもある。その見極めが大事。
 構造物、デザインの寿命の他に機能の寿命がある。高速道路が50年たったら歩道になっていることも考えないといけないだろう。
 
(平峯)
 関西は住み易いかでは、あまり良い評価は無かった。女性問題、市民の問題は極めて大事な意味を持っている。
 
(フロア)
 男性社会であるが、女性をたくさん入れれば良いまちが出来るのかはよくわからない。男が地域でものを考えるようなしくみを考える必要がある。男と女が対立するのではなく、共生して考えていかなければならないと考える。
 
 
 最後にひとこと
 
(ルーチェ)
 国際化という言葉自体がおかしい。英語に訳せない。概念はなく無理がある。国際化のもとにあるのは、あこがれという気がする。
 
(ラウラ)
 国際化の意味をもっと考えたほうがいいと思う。
 
(松尾)
 社会が転換期のなか、個人個人で考えていかなければならない。
 また、多様な社会になっていくなかで、誰が何をしなければならないかを考えなければならない。
 日本人は言われたままをすることに慣れてきたので、個人で何をしてどう責任を取るかに慣れていない。これは、まちづくりにも言えることで、これがキーワードだと思う。
 
(正木)
 制度の問題、物理的な問題を心の問題にすり替えることがある。
 トンネルに女性が入れないのは山の神が怒るということだが、これは心の問題である。
 歴史的にいろいろ問題があったとか言われているが、実際は思っているだけだったりたり、思わされていたりすることもある。
 まちづくりについても前提となっていることがいつからなのか、本当なのか考えていただきたい。
 
(岩井)
 日本本来の文化がわかっていない若い人達が、外国だけ憧れて自分を国際化しようとしている感じがする。
 いかに文化的に国を失わない状態にまちをつくっておくか、ということもまちづくりを担う全ての人間に課せられているのではないか。

(平峯)
 市民・住民との間でまちづくりをするシステムがあり得るか、どうつくれるか、完全な答えは未だ無い。
 行政だけで作るわけでなく、あらゆる人達が関心を持って取り組まなければならない。
 特に今のシステムは責任が明確でないことが議論されている。個人個人の責任、行政という組織の責任、市民団体の責任でもあり、この責任と役割をどのようにやっていくかが問われている。
 日本の場合、豊かさとは何かがテーマにもなっている。よく議論になるが、豊かさの定義ができていない。子供の教育から生活の仕方までこれから問い直していかなければならない。
 今回の議論を参考にして次のまちづくりに取り組んでいきたい。
 有り難うございた。
 
  
藤田幹事長挨拶

 本日、長時間にも係わらずフロアと一体になった議論が出来た。
 それぞれの国の方々から、行政がこれからの社会資本形成、まちづくりを行うにあたっては歴史、文化、伝統あるいは国際化など原点に帰らなければならないとの意見があった。今後これらを踏まえ新しいまちづくりに向かっての展開が必要ではないかと思っている。
 都市をつくる、都市を取り巻く環境は極めて厳しい折である。公共事業イコールまちづくり、皆様方の都市生活、都市活動そのものがまちづくりの一つ一つに繋がっているという自覚のもとで、これからも引き続き営々と愛着を持って街をつくるという意識でやっていくべきではないかと思っている。
 地域デザイン研究会としては、今後もこのような催しにチャレンジしていきたい。
 本日はどうもありがとうございました。
 
 地域デザイン研究会 1998フォーラム 終了


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