<シンポジウム第一部:基調講演>

「地域主権の都市づくり〜それを可能ならしめる条件とは〜」

講演者:本 間 正 明教授(大阪大学副学長)

 今日は地域デザイン研究会10周年記念にあたり非常に光栄に思っております。

 現在、我が国は、いろいろな意味で正念場にたたされていると思います。正念場というのは、これは昨今の景気の低迷という問題、戦後かつて経験しなかったほどの滑降拠点に入っておりまして、ご承知のとおりわれわれバブルを克服したと思っていた96年には、4%強の失業率となり、もはやバブルを克服したかと錯覚しておったわけですけども、97年、98年にはマイナス成長となって、この状況はGDPで30兆円を超すという具合になっております。

 したがって、こういう30兆円の需要が剥げ落ちるというような状況の中で、あらゆる側面でこれまで通用してきたシステムそれ自身が著しく問い直されてきているというのが実態だろうと思います。
これは制度の対応度というものが国際的な環境条件となり、そういう変化とのミスマッチがどういう具合に是正をしていくかということがすべてのシステムのなかで問い直されているということが、日本のいわゆる広い意味での構造改革というテーマであるという気がします。

 この構造改革という1つの大きな問題点は、行財政改革といわれる問題であります。この行財政改革というのは、われわれ公共的な問題をすべて行政、政府がやるんだとこういう思い込みの中で戦後ずっと続いてきたわけでありますけども、この制度がうまくいった背景が低下しているにもかかわらず、この行財政改革自身硬直的でいわば孤立した体系としてまわっていかないという問題はわれわれに行財政の実はエキスタリズム専門能力の低下として位置づけられているのが実態だろうと思います。

 何が変わったのかという話からはじめてみたいと思いますが、日本の経済環境をめぐる状況というのは、私は幾つかの条件が変わったからだと思います。

 1つは、これまで特に80年代後半のバブルが崩壊するまでの状況で、比較的安定価格経済でしきられてまいりました。

 これは為替レート、金利、株価等々がきわめてボーダレスという状況で行われてまいりました。この状況は市場経済と公的な部門の著しい乖離を生み出してくるというのが実態であります。

 つまり公共部門として位置づけられ政府がやることの価格が非常に変わってまいりますと、公共部門がやるのが法律なのかどうか、あるいはその価格を払って民間でやったほうがいいのではないかという問題が厳しく問い直されているのが実態であります。例えば公共部門の中で価格づけひとつとりましても、民間の価格に比べて公共事業の価格がおかしいのではないかということが極めて多く、実は停滞化をしている原因になっています。

 これは、土木、建築だけの世界ではありません。社会保障の問題でもいろいろな形でこの問題が大きく波紋を広げているというのが実態です。

 価格が大きく変わりますと、当然その価格に応じて要素つまりそれを供給するものがどういうセンターに入っていればいいかどうかということは取り続けられるというのが実態なわけであります。例えば建設をするものが公共部門の道路局がやって設計したらいいのかどうかという問題、あるいは建設省がそれをやって直に直接やったほうがいいのかという問題、それを外にまわしてアウトソーイングするという問題、様々な形での資源の官と民との間の入れ替え戦というものが価格の変動の中で起こる、こういう状況が発生いたします。

 これがまさに80年代後半から90年代現在に至るまで各国で行われている。テーマであります。
自分達が設定したものが予算で献上しているものと実際取り引きされるものが後でこんなに違うというのはいくらでもあるわけで、例えばパソコンを買うというようなことを概算要求で1年半か2年前にやっていることが、2年経つと技術進歩が非常に早い状況の中で価格がダウンしている、こういうケースがいくらでもあるのです。そういうことを実は厳しく問い直されるという状況が欠如したというのが高度成長からの通例であります。

 われわれ90年代に入って財政が極めて厳しい状況に追い込まれていることがこの問題を実は顕在化させているわけであります。

 日本がこれまでと同じような意識が残っているにも係らず、一方で将来の税負担額であります。国際地方債が増えてくる中で市場経済で表面化する状況と著しく違う情勢というものが様々な形で行政部門に対し、市民に対しての負担の求め方、あるいは行政がきちんと市民のニーズというものを担保してるかどうかという公益性の問題、公共性の問題というものを価格とパフォーマンスの関係が厳しく問い直される時期にきているということがいえるわけであります。

 そして、そのことを実は我々に見せることになりましたのは、情報化時代の進展であります。我々は今まで市民とか住民とかいうものを中心に捉えてまいりました。

 市民とか住民とかいうものが行政よりも専門能力がなくて情報もたずにいるということを前提にし、行政が一貫性という形で、継続性という形の中で頑強に耳を傾けないという状況が長く続いたというのがこの問題を実は深刻化させているのが、現在になって問われているところと思います。

 この問題は、技術の問題と申し上げましたけれども、すべて技術というものの進展というものが、著しくシステム自体を変える側面をもっていることでありまして、アナログ技術からデジタル技術に変わったということが、いろいろなところへアクセスできる状況となったにも係らず、石としてアクセスしようとする気がない官の世界があるとすれば、そこの部分で行われていることをいったいどういう具合に外からみるとこれを理解するかということに対して説得が出来ないという状況になります。

 例えば最近、日本の土木、建築の世界特に行政に係る評判というのは国際的にも非常に悪いというのが実態であります。これは公共投資の問題、例えばこの2年ぐらいを例にとりましてもユーダンスが日本のことを土木国家、土建国家とこういう言い方をして一番最初に問題提議をしております。

 日本は美しい自然港という国土に囲まれていながら、その60%をコンクリートで固めています。ネットワークをし、あらゆるところをコンクリート整備して漁港をつくるということは、技術者としてのいわばこれは非常に素晴らしいことであろうと思います。

 しかし、技術というものがきちんと市民や住民のニーズを反映していることが問題が問われずにネットワークとしての道路やあるいは漁港、空港というものが単に形式的に整備されているということが果たして国民の生活やいかなる意味か問い直されているというのが現在の時代の状況であるといえます。

 これは基本的にアメリカやヨーロッパやイギリス等でも問題になったわけであります。

 基本的に財政が非常に緊迫をし、これを税制で賄うということになりますと負担額が国民に対して降りかかりますから、そこの内容を精査するということがあるいはその内容というものが単に歳出の中身、公共投資の中身だけではなくて、それを供給する体制として効率的か否かという問題が厳しく問い直されてきたのがこの80年代の状況であるといえます。

 今現在、ニューパブリックマネジメントという言葉づかいがなされています。

 ニューパブリックマネジメントというのは、新しい公共部門のマネジメント、手法、経営のありようというものを幅広く問い直そうということが、今、現在各国において行われております。そしてそれと同時にニューパブリックマネジメントをきちっとマネジメントするためには、実は公開形成度の問題がここで行われております。

 私自身がちょうど20年前ですけどもイギリスに留学をし2年間ほど学んだわけでありますけども、私は市民とか住民とかあるいはボランティアとは何かつくづく考えさせられました。

 ちょうどサッチャーが登場したときでありまして、民間ができるものについては、民間がやるということの中で小さな政府というものを統合し、そしてイギリス経済を再生していくためのいわばドラスチック的な処方箋を用意したわけでありまして、その時にサッチャーは基本的小さな政府を施行し、政府がやることを小さくするということをお話しましたけれども、それと同時にニーズというものがなくなるものではない。そのニーズというものをどういう形でそれを甲乙的にニーズというものを把握し、そしてコスト面でも節約できるかどうかという問題に対しても仕組みを定義したというのがサッチャーの実は偉いところであります。

 サッチャーは、一つの税制の優遇措置、これをNPOボランティアに対する財政上のインセンティブ、感性の側面を機能しそしてそれを行政という中において、供給する官と民との間のNPOを地域社会に位置づける、こういうことを仕組みとして創りました。

 グランドワークというものであります。あるいは、ナショナルトラストという言い方をしているものもあります。ナショナルトラストというのは自然でありますとか、ヒステリカルなモニュメント等これを維持していくという機能をもっているわけであります。しかし、グランドワークというものは、官の部分と企業の参加とさらには個人としてのNPOボランティアとしてどういう具合に地域社会に入り込んでいくのかこれが大きくイギリスの地域経済というものを活性化したといわれております。

 われわれと随分違う状況がこの20年も前に行われていたということが何を意味するかということ、財政が万年赤字になっておんぶにだっこのゆりかごから墓場までという屈指の逆意の体制というものが見捨てられているもの、これを非常に競争力を落としていく中で作り上げた1つの知恵だということが言えます。

 われわれはこのことを20年やって経済力がイギリスやアメリカとは逆方向で、きわめて強い経済力をもつ税金ですくいあげ民に対して分配、配分するということが長く続いたのがいわば20年近くの状況であったといえます。

 実際に出来たのは恐らく約15年弱であったんですが、15年弱であったにもかかわらず意識は今でも官が茶会をしてお金を民に分配するという精神構造がずっと続いているところに日本の問題があるというのが私のいいたいところであります。

 つまり、我々は、市民や住民が税金を払っているということをすっかり忘れてしまって霞ヶ関に全部いったんお金を集めてそれを地方に分配するという構造の中で地域を指導する官がすべて霞ヶ関の方を向いてしまう。すると霞ヶ関は、おんぶにだっこでナショナルミニマムあるいは、ナショナルスタンダードとして地域的な特性、歴史的な相違というものを考慮せずにハードな部分だけを全面的にに押し出して技術者としての美意識というものを続けてきたというのが実態だと思います。

 地域というものが行政によって混乱され縦割りになっているところに、地域が1つのコンセプトのある街として出来なかったということが非常に大きな混乱をもたらしているのだろうと思います。
本来であれば街というものは、福祉の建物もそうです、文教の建物もそうです。あるいは道路という閉鎖的なものもそうでしょう。

 これを一体としてどのように扱っていくかということがその街の個性ある発展として不可欠であるにも係らず、全部一つの省の一つの課にぶらさがって金がおちてくるというような状況の中で考えていきますととんでもない街になってしまうという事例を我々はまのあたりにするわけであります。

 例えば福祉と教育の施設を一緒にするというようなことすら出来ない。

 こういうことがいかに非効率で無駄なことをやっているか、しかもそれが統一された形でなくて縦のラインの中で横との評価というものもせずに保証付け等も含めて全体が動いてきたという状況は税制が著しく公共投資の中身の問題が、国民生活あるいは国民の経済生産面において翻弄されている状況として抜擢せざるを得ないわけです。

 私は、財政とか税をサポートする立場の仕事にあるゆえに政治部門のサポーターとしてみつづけてきたわけですが今の行政は思考停止しているというのが実態だろうと思います。

 その意見は、目的というものが一つ1つの省あるいは課に埋没し国民生活というもの、あるいは地域経済のまちづくりの中にどのように反映されていくかということが意識のなかにさえないということがあるわけです。

 地方の行政部門にとっていかに金をもってくるか、そして後に問題が残らないようにどういう具合に言い訳をするかという問題状況の中で行政の内部での情報交換ですら、きちんと出きてないのが実態だろうと思います。

 私は、昨今の6月から大学の中で行政を適切的にする立場にありました。

 実はこの行政の中の縦割りの弊害というものが如何に深刻であるかというのを感じざるを得なかったのです。仕事のやり方として定着しているわけですから何ら疑問を感じることなく進めていることが私にとって不可思議なことです。

 例えば、全体としてプロジェクトでこういう建物がつくりたい、この部分は何か工夫をすべきだというときに横に開かれた形で調整というものがほとんど機能していないという感じがしました。

 まちづくりにとって予算配分のありようというのは、非常に重要だと考えますが、まちづくりの中で予算一つとってみましても、ある部署であるセクションとの間に評価というものをまったくやらないわけであります。

 今、何が必要でプライオリティはどっちなんだという発想はなく、一律的に上げたり下げたりする顔立て社会、自分が傷つくのがいやだったり自分のやっていることを低評価されるのが我慢ならないという意識が評価というものを妨げていると思います。私自身は官僚システムというのは日本経済の成長に大きな役割を果たしたということは、十分に認めたうえで、時代状況の変化の中で役割の見直しが必要だろうということを申し上げたい。

 このようなことからまちづくりを行うにあたり、官が分断された状況のなかで自分の独占欲の中でまちをみると大きな問題を犯してしまうということになるのです。

 街を総合的に面でみて多機能な生活空間、生産空間としてみていく場が官や行政になければまちづくりにとって最も重要なコンセプトづくりが出来ないというこれまでの状況の繰り返しになってしまうと思います。

 このような状況は、金をつける側の財政が市民のニーズを受け入れたかのようにしていたかのようにしていたことや陳情市民や未成熟市民が要求しつづけるといったことにより助長され、このようなことが市民と行政、住民と行政との間の連携を不可能にしてきたといえます。

 政治や行政という場の中でパートナーとしての意識がなく、うるさい存在の住民であったり、情報を与えないままに勝手に行っている行政であったりという関係が続いていると思います。

 しかし、この5年程でだいぶ意識が変わってきたと思います。

 成熟した市民が増え、反対故の陳情を主張する市民が減ってきていると考えます。このような住民、市民は自分のまちをどうするか、自分の生き方をどのように反映するかといったことに対してまじめに取り組む人々が出てきていると感じています。

 私が20年前にイギリスの生活の中で最も学んだことは、我々市民が不満を言って行政叩きを行うといった次元からもう一歩踏み出して、自らが行政とタイアップして何が出来るかという大人の知恵を身に付けているといった驚きでした。

 これは単に、まちづくりとしてのみでなく、例えば古城をどう守るか、そして都市の住民として市街の利便性とどう調和させるかという問題を、自らの問題として真剣に処理する場を持ち、積極的にコミットしているということに感動を覚えました。

 市民が欲しているものに対して行政がにぶいということと、それを効率的に実現していくための専門能力というものが機械主義にあるためにお金がかかるという2つの問題をどうやって効果的にやっていくかということを時間をかけながら地道に進めてきたというのがイギリスの有り様です。

 公や官の部分がやれば今までのやり方ではこれだけお金が掛かる事をボランティア或いはNPOが自分達のまちにとって技術的に最善の方法を模索することによって、10分の1から20分の1でやるような事例は結構あります。

 公園をつくる時に、何も土木工事の専門家だけに頼むのではなく、まちの人々が自ら参加するということがまちを技術的にサポートするという心の満足と金銭的な節約に繋がるという事例をたくさん見ています。

 あまりにも専門的なプライドが高すぎる、また、技術的な仕切りが高すぎる状況の中で、このチームワークとシステムをつくりあげれなかったことは非常に残念なことです。

 このようなグランドワークといった組織は日本でもいろいろな形で出てきています。例えば静岡や奈良市のまちづくり、民間でいえば湯布院等はまちのコンセプトに共感を持った人々がそのまちを訪れるといったことが起こっているのです。

 何処にいってもミニ大阪、ミニ東京といった時代状況ではないといったことを充分に認識する必要があると思います。

 私は、行政改革との関連の中で、イギリスとニュージーランドの行政体制改革のあり方を観てきました。例えば、公共投資の一つの有り様であるまちづくりに対しても、予算をどのように執行するかという公的なセクターの本来の有り様について市民が幅広くコミットしているという状況です。このことは極めて広範囲にまちづくり等の分野に適応されています。

 日本の官僚の方の最高のプライドは、自分が金を何処から獲ってきて何処に権威を持って分配するかということで、使った金が将来的にどのような利益を生み出すかということに無関心だと思います。
我々自身が公共投資をした時に、来年そして3年後、5年後にどのような利益を生み出すかといったことを評価した上で、現在の公共投資のコストに対する利益について問直さなけらばならず、そのことが予算の分配に順序づけなければ予算の配分に基準がなくなってしまうと思います。

 日本では殆ど行われていませんが、イギリスやニュージーランドでは、お金の使い方というのはまちづくりの中でもどのような価値を生み出すかという発生主義でありキャッシュベースの現金主義会計となっています。このコストとそれに伴う利益を予算の段階で提携しているというのが実態です。

 市民と行政とが計画に対してどのよにすれば効果的で効率的かということを考慮して、計画を入れ替えるといった発想がなければならないと思います。計画に対して公が行うとこれ程コストが掛かるが、民の人々がこういう手法でやるといった提案をすることで両者が一つのコンセプトに対してチームワークを発揮し、一体どのように事業を行い実現させていくかということが重要なことだと思います。

 今まで官が住民に対して優越的であったというのは、金、情報、専門能力といった三つの格差が生み出してきたものであろうと思います。

 しかし、配分すべき金は財政赤字という形で著しく無くなっています。

 二つ目の情報については、国家公務員、地方公務員の守秘義務を使い分けて、本来発表すべき情報までも提供していないという状況は解消されていないと思います。

 新聞やマスコミに取り上げられた問題に対して、「何も分かっていないのにあんな事を書く」という言い方をします。何も分かっていないのであれば分かるように情報を提供するというのが本来のやり方だと思います。民主主義における行政の在り方というものを根本的に問い直すことが官の世界の中で意識的に行われていないという所に問題があると思います。

 情報開示に対して法律の制定が進み始めていますが、きちんとした情報開示の実施基準というものを模索されていることと思います。このような状況こそ我々は積極的に情報開示することによって住民、企業、NPOの人々をパートナーとして参加させることが出来ないのかということを申し上げたいと思います。

 三つ目の専門能力については、今はそれほど大きく広がりはないと思います。民間のほうがむしろ進んでいるかもしれません。虎の巻のような形で意識改革が出来ずに非効率なやり方を繰り返している危険性があるという気がしてなりません。例えば、技術の問題でいうと、紙を山のように使うことがあげられます。大学から大蔵省の役人として携わった経験から、官僚はどうしてこのようなことをするのだろうと思いました。時間を無限に在ると錯覚したような無駄の多い今までのやり方を見直さないことには、生産的で創造的な仕事が出来る状況にはありません。先ず、アウトプットをみないでやったことに対する言い訳づくりや、口煩い先生を懸念するといった形で意思決定が行われていると思います。

 まちづくりにおいても同様に口煩い先生を嫌がる官僚は多いです。議会が充分に住民や市民の意識や望みを反映しているかということは間接民主主義社会において限界が在るこということは充分に認識されていることです。

 そういう状況の時に役所或いは行政がその人々を説得させる材料を科学的にマネジメント出来るかどうかという問題と、市民や住民から出てきたニーズを何故棄却してこちらを採用するかという科学的な検証というものは、裏表の関係で決して独立したものではありません。

 私たちはどうも縦割り社会の中で横の問題をどうもうまくこなし得なかった状況というのが実態であろうと思います。縦割り社会の問題というのは、行政だけでなく官の問題であり、民間においても年功序列、終身雇用といった中で自由な発想というものを制御させてきたというのが実態です。この事は、実は臆病な日本人にさせていると感じる訳です。

 私が非常に反省して帰ってきた訳は、イギリスにあります。まちづくりの問題、特に私はこういう問題に対して極めて臆病だったんですが、周りの人々は一緒にやろうといって積極的にやれることから始めようと、しかもその事が自分にとってプラスであろうとこういう問題を実感しながらやっていくことを感じました。

 日本的な社会の中では無いこのような部分を実行していったということを考えますと、やはりこの様な地域デザイン研究会のような官と成熟した市民との間のコーディネータ役としてそれを結び付け具体化していくプログラム化が出来るかどうかということが非常に大きな課題になってくるだろうと思います。今の日本社会の中でこそ力があるんだろうと私は思います。

 官の御用達というものは大分値打ちは下がってきました。しかし、心理状態の中では非常に大きく、特に企業を参加させるという意味では官のコミッティというのは大きな役割を果たすものだと考えます。

 NPO法が施行され、現在は申請されている段階だと思うのですが、こういうことでNPO自身の社会的な認知をされ始め、生活の問題、地域の問題、福祉の問題等に関してこれから恐らく相当大きな問題を高齢少子化の中でやっていくということが期待できるわけです。如何せん意識とマネジメント能力という点では、まだ日本のNPOはヒヨコの状態であります。うさんくささを感じさせるのは否定できない。ここにこそ官がコミッティをし指導ではなくて一緒にものを考える、一緒に働く、汗を流す等とこういうステージを作り上げて行くということが必要であると、そこを垂直的な形にしないためにはこの問題としての役割を果たす組織というものをどういう具合に創り込んで行くことが緊急の課題になってくるんだろうと思います。

 そういう人々が一つ一つのテーマの中でより狭い集団からより一般的なところにまで運動、活動というものを広げられるかどうかということは、人々の熱意の問題でありまして如何に地域に密着したところでもの運動を展開できるかどうかということに掛かっているんだろうと思います。

 我々は、歴史を否定する形で町の発展に尽くしてまいりました。地域のニーズというものをきちんと評価をせずに単に経済的な側面だけあっちに在るのにこっちが無いというような形でやってまいりました。

 特色あるまちづくり、例えば大阪市などこれからどういうまちづくりをして行くんだという時に私は組織体形をより広い範囲の中で確立して行くべきだと思います。その中の一人のメンバーとして行政の中枢の方々が入ると同時に民に対して充分発言させるだけの努力をしていただきたいと思います。そしてこの事は、今後日本の高齢少子化を考えて行く時に二つの非常に重要な役割を果たすだろうと考えています。

 第一は、行政の非効率をきちんとチェックする、安上がりの形で実現できる組織体に脱皮し得るということで非常にこの事は行政に係らずその他も含めて言いました。しかし、違ったアプローチをすることによって結果的に我々自身がよくなるということが、また安いコストの中で出来るということが、全体としての利益に繋がるということであります。これは大きなメリットがあるという気がします。

 第二は、これは人々の生き方の受け皿になるということであります。我々自身が実は同一的で、会社人間であるが、地域に対してはこういう時代状況が明らかに変わってまいります。高齢少子化の中で云えば、高齢者の方々の中には問題意識もあり充分社会活動が出来る60代から70代の人々が増えます。

 一方では、若い人々、団塊の世代の人々のように、企業戦士として会社のためだけに尽くすという世代ではないと、自分の生き方を多様に模索し、企業との関係においても出たり入ったりする人々が増えてくるという話になります。こういう人々は、その中核的な組織から飛躍した時にいわば何を自分が生活と生き方の両立をしている時に、このまちづくりを含めたNPOボランティアの世界に入って行くということ、これは自己充足という観点からみても極めて重要だと考えます。我々は、そういう問題に対し受け皿を持っていない。だから退職すると特に男の人はそうですが、濡れ落ち葉となってしまうのです。

 私がアメリカ・イギリス社会の中で非常に感動いたしましたのは、将来の生き方を踏まえた高齢者が日本より多いということであります。もう自分が社会にとって御用済みだと、また役に立たないというコンプレックスの中で生きている人々が自分もまだ参加意識がある、しかも充分にその機能を使えるという形でリタイアした後に時代を過ごすということがあるとしますと、これは自分の人生が変わってくるのだろうと思います。

 JICAの技術指導員の方々、例えば自動車修理の方々、或いは言葉を教えにいく方々の多くは外国で物凄く活き活きとした生活を送られています。活き活きとした生活、或いはまちづくりという形で活き活きとしている人達に対して、日本のお年寄りは生き生きとしていないのが実態だろうと思います。我々は、今後の問題を考えてまいります時に自立的、自己充実の受け皿としての問題をもっと身近なまちづくりの中で戦力化をして行くということが非常に重要なんだと思います。

 この二つが備わりましたら、実は私はプロセスをまとめて行くことのコスト、民主主義のコストというものが掛かる訳です。権力で、権限で押し切ることはやさしいことでありますけども、民主主義は本来抱えるこの調整というものを時系列的に時間をかけてまちをつくっていくという作業の中に落とし込めるということで日本の街は再生するのだと私は思います。

 役所の人々は2、3年で担当者が替わるが、地域の人はそこで働くとなれば一生そこで過ごすということになり、それが基本的にチグハグとした問題が当然起こってくると思います。また、コンスタントに継続的な組織形態を創ることによって、そして具体的な会社毎のプログラムを開発するこの問題は個性あるまちと、そうでないまちが20、30年後にはっきりした形で現れてくるのだと私は思います。

 特に、2020年からの5年間は高齢少子化のピークで、介護という制度を通じて地域の格差を招いてくるのです。こういう発想があるか否かということは、市町村間の競争、まちづくり競争という観点では、非常に大きな差を生み出してくるということを我々は意識して行く必要があると思います。

 最後に縦割りの社会構造から皆が夢を持って参加できる社会構造へ、そして官、民、個人が最もアドバンテージを充分に発揮できる形でのチームを作り上げていくというのが今の時代の中で最も求められていることだと思います。

 少し、行政に対しては厳しい言い方をしたかも分かりませんが、地域デザイン研究会のような任意団体が、コーディネータととしてこれからも機能し、成果をあげていただきたいと私は思います。


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