REPORT

STUDY21熊野地方遠征記録

~熊野地方の地形・地質と自然条件~

今中昌男

 熊野は隅(クマ、スミ)が転じたとの説がある。都から離れた地方との意であろう。今でも、天王寺から熊野の中心都市・新宮まで、JRの特急「くろしお」は途中駅で長時間停車するわけでもなく、3時間50分前後をかける。我国では仏教渡来前は山・森・川中島・岩石・滝・巨木などの自然物を崇拝の対象としてきたと言われるが、熊野地方は今でも自然崇拝形式を残す神社が多く残る。はたして都から遠いからだけなのか?

 実は熊野の地形・地質を観察すると、崇拝の対象となるような独特の形状をした地形・地物が多いことが分かる。今回、STUDY21としては熊野地方に残る原始的な崇拝事例を観察し、これからのまちづくりに活かす術を考える。従って、著名な神社仏閣はたとえ通り道であってもパスするストイックな研修旅行であった。

参加者は高岡・小西・中尾・小山・今中。

 視察対象地は、岸和田(集合・小山車に乗車)→有田川下流域→和深(泊)→古座川流域→那智勝浦(泊)→熊野灘沿い→玉置神社経由→五條(解散)の、約700kmに及ぶ行程であった。今回はそのうちの古座川流域と熊野灘沿いの自然崇拝を紹介する。

■紀伊半島の地形・地質

 平安時代の仏教説話集である三宝絵詞に「熊野は山重なり、河多くして、行く道遥かなり」とある。

 「山重なり」はまさしく実感されるところである。京阪神からでは、和歌山県下の長峰山脈・白馬山脈・果無山脈を長いトンネルで抜けていく。これらの山脈はフィリピン海プレートが日本列島を北北西の方向に押すため、東西を軸とした山脈になり、熊野への旅人を待ち受ける。それぞれの標高はさほど高くないが、山麓には断層帯が走り急峻である。徒歩で熊野を目指した時代は何度も険しい山を越えなければならず、熊野は遥かなりとの思いを抱かせたのであろう。

 紀伊半島は果無山脈の南麓を流れる富田川(この川沿いの道が中辺路)で地形が大きく異なる。富田川以南は軸性のある山脈はなく、いくつかの独立峰が奥深くに聳(そび)えている。海岸線も御坊市・熊野市を結ぶラインから北はリアス式海岸であるが、富田川以南は海岸段丘が発達する隆起地形である。

 紀伊半島の地質は東西方向の付加体と浅海での堆積層(前弧海盆堆積層)とが基盤になっているが、熊野地方では約1,500万年前に大規模な火山活動があり、基盤岩を突き破るようにして熊野酸性火成岩類が形成された。富田川以南、熊野酸性火成岩類が分布するエリアが今回の主な対象フィールドである。(図1)


写真1

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写真3

写真4

写真5

写真6

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■古座川流域の自然崇拝

 約1,500万年前の熊野地方の大規模な火山活動で大量の火砕流が噴出し、地表が陥没したため古座川付近から熊野市紀和町に至る巨大なカルデラが形成され、地下には酸性火成岩体がつくられた。カルデラ南壁にあたる部分には火砕流と上昇したマグマが火道に残され、総延長20kmにわたる弓なりの岩脈をつくった。これを古座川弧状岩脈と言い、古座川流域の独特な景観をつくっている。それが崇拝や伝承の対象になっている。

 和深(串本町)の海岸段丘上の民宿を出発した我々は、矢鱈坂を越え、穏やかな表情を見せる山間の集落、三尾川を抜け、古座川中流域に到達する。古座川沿いの道が激しく蛇行し、視線が変化するほどに森林を突き抜けて屹立する岩が現れる。川沿いのわずかな田や集落は丁寧に積まれた石垣で区画される。これらが古座川流域の特徴的な景観であろうか。我々は更に古座川下流部に向けて走り、①古座川の一枚岩、②滝の拝、③牡丹岩、④河内神社、⑤金比羅神社、⑥高池の虫喰岩、を見る。途中には、加工のしやすさから石垣などに使われてきた宇津木石の採石場もある。

<高池の虫喰岩>

 古座川弧状岩脈の高さ約60mの流紋岩質凝灰岩が風化され、虫に食われたように穴がたくさん開いている。同じように風化した牡丹岩ともども奇怪である。穴の開いた小石に糸を通して願掛けすれば、耳の病気が治ると言われている。(=写真1)

 このような岩は古座川沿いには多数見られ、虫食岩近くの金比羅神社では先端部が風化した岩の足元の窪みに祠を祀っている。(=写真2)

<河内神社>

 毎年7月には古座川筋で河内島を船で巡る河内祭りが行われる。河内島がご神体であり、俗世間とは古座川の清流で隔てられている。島は古座川弧状岩脈の下部をなす花崗斑岩でできている。対岸の川べりに御幣をたてる祭壇と石灯篭の遥拝所があるのみで社殿はない。当然、地図に神社の表示がないので、探すのに苦労する。(=写真3)

■熊野灘沿いの自然崇拝

 前述の火山活動で、カルデラ内には那智勝浦から三重県紀北町にかけての広大な花崗斑岩の岩体(鏡餅のように膨らんでいるので餅盤/ラコリスと言う)と火山灰・火山礫を起源とする火砕岩が形成された。熊野灘沿いではこの花崗斑岩と流紋岩質凝灰岩が自然崇拝の対象となっている。

 那智勝浦にベースを移した我々は新宮市から熊野市にかけてのフィールドワークを行った。熊野川の南岸までは和歌山県で山が海に迫る景観であるが、三重県域に入ると地形が穏やかになり、川沿いの平野も広くなったように思える。川を越えると景観が大きく変わる印象である。我々は①神倉神社、②平尾井の薬師堂、③花の窟神社、熊野灘から離れ、十津川の④玉置神社の順に巡った。

<神倉神社>

 神倉神社は新宮市の背後に屏風のように聳(そび)える千穂が峰中腹にあり、ご神体とされるゴトビキ(ひきがえるの意)岩は市内、海上からも見上げることができる。古くからシンボルとして崇められてきたのであろう。ゴトビキ岩は花崗斑岩が縦横の節理に沿って、皮をむくように風化が進み球状化したもので、ゴトビキ岩が乗る岩も花崗斑岩である。神倉神社は勇壮な「お燈祭り」の舞台でもある。(=写真4)

<平尾井の薬師堂>

 熊野川支流相野谷川を遡ると、我々世代の記憶に残る農村風景が現れる。相野谷川支流相野川最上流にある平尾井である。棚田には大きな岩があり、民家はその斜面にあることから地すべり跡地であると判断される。地すべりによる土砂供給が肥沃な谷の一因にもなっているのであろうか?薬師堂は山の中腹にあり、背後から巨石がのしかかっている。もとは磐座信仰の場であったのであろう。(=写真5)

<花の窟神社>

 熊野灘に面した高さ約45mの巨石がご神体である。岩体は凝灰岩で、所々風化して窪みができており、その足元の窪みがイザナギノミコトの墓所とされる。神倉神社のゴトビキ岩とは陰陽の一対をなすと言われる。長い七里御浜が終わり、これからリアス式海岸が始まるシンボル性に高い場所にある。山が海に迫っており、ご神体の山を紀勢本線のトンネルが抜けている。(=写真6)

7<玉置神社>

 玉置神社は1,077mの玉置山頂付近にある。その玉置山は枕状溶岩堆積地であり、枕状溶岩が積み重なる様を玉木、玉置と呼んだことが名の由来と言われる。山頂付近の露頭する玉石(枕状溶岩)をご神体とする玉石社が奥の院である。社殿はない。枕状溶岩は深海に噴出したマグマが急速に冷却してできる溶岩で、玉置山が海底から持ち上げられた証拠であり、神社空間にパワーを感じられる。(=写真7)


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