REPORT

~明治日本の産業革命遺産~

軍艦島(端島)に上陸

大戸修二

 江戸末期の1850年代~明治末期1910年までの23資産が7月5日、「明治日本の産業革命遺産」としてユネスコの世界遺産に登録された。その1つ、海底炭鉱の基地として栄えた長崎市の通称「軍艦島」、昭和49年(1974年)の閉山後は無人島となっている「端島」に、周遊・上陸ツアーに参加するかたちで上陸した。

●拡張されていった人工の島

 「端島」は長崎港から南西約19㎞に位置し、南北約480m、東西約160m、周囲約1,200m。1810年頃に石炭が発見され、明治時代に天草の小島秀氏が開坑、その後に佐賀藩深堀領主鍋島孫六郎らが経営した。火災で閉鎖後の1890年(明治23年)からは三菱の所有となり、本格的海底炭鉱として創業。隣接する高島炭鉱とともに日本の近代化を支えた。当初の端島は現在の3分の1程度、岩礁と砂州からなる小さな瀬だったが、採炭を進める中で6回の埋め立てを繰り返し、拡張されていった人工の島でもある。

 端島炭鉱は1891年から1974年の閉山までに約1,570万トンを採掘。採掘作業は海面下1,000m以上の地点にまで及んだ。島の最盛期には生産施設、鉄筋高層アパートなど居住施設が林立、5000人以上の人たちが生活していたそうで、人口密度は東京都(当時)の9倍にも達した。

●桟橋を出て45分で到着

 世界遺産登録後の7月8日、前日までの雨は止み、長崎の空は晴れ渡った。私は長崎港常盤2号桟橋で予約済みの小型船「さるく号」に乗船。出港して45分後、目指す端島の雄姿が現れた。この島が軍艦島の愛称で呼ばれるようになったのは大正10年(1921年)、当時建造中の戦艦「土佐」に似ていると長崎日日新聞が報じたのが始まりだという。さるく号はエンジンをふかしながらドルフィン桟橋に着岸。私は添乗員の手の支えを借り、「1・2・3」の合図で無事に上陸することができた。

●30号棟は日本最古のRC高層アパート

 建物や施設は崩壊が進んで危険ということから、見学ゾーンは3カ所に限られる。第3見学広場から見られるのが、30号棟と31号棟。黒ずんだ30号棟は地下1階地上7階建てで、鉱員社宅として1916年(大正5年)に建設され、日本最古の鉄筋コンクリート(RC)造り高層アパートといわれている。

 第2見学広場の前に建つのは、鉱山の中枢だったレンガ造りの旧総合事務所だ。ガイドさんが当時の写真を見せながら、稼動時の状況を説明してくれた。今は崩壊が進んでいるものの、炭鉱マンの共同浴場があり、浴槽はいつも真っ黒になったそうだ。鉱山施設のほとんどは閉山時に破壊されたが、第二竪坑へ行くために設けられた昇降階段が、ありし日の残骸として姿を現している。過去にこの島を舞台とした映画やドラマもあり、松竹映画「緑なき島」(石田清吉製作)は1949年(昭和24年)に全国上映された。炭鉱生活を背景としたヒューマンドラマで、現地撮影の際には三菱鉱業、高島鉱業所、端島職員組合、端島労働組合が協力したという。

●いかに保全していくかが今後の課題

 制限1時間という少し慌しい上陸だったが、私には貴重な経験となった。その一方で、世界遺産登録後の課題も多いようで、今後の行方が気にかかる。その1つが廃墟化した軍艦島をいかに保全していくかという課題だ。産業遺産の価値を構成するのは生産施設と護岸とされており、居住施設は必要要件の対象外。さらに鉄筋高層アパート「30号棟」は、長崎市が日本建築学会などに委託した劣化調査の結果では、倒壊の危険性があるとして「大破」と診断されている。大破は他にもあり、補修困難と診断された棟も多い。長崎市では今後、島内にある約40の居住施設に優先順位を付けて劣化を防ぐ考えだが、取り壊される建物施設もかなり出てきそうだ。

●明治日本の産業革命遺産、長崎で8件が登録

 島を出て帰路についた「さるく号」は、斜張橋の女神大橋をくぐり長崎港内に入った。長崎のトレードマークの1つが造船業である。両岸には多くの造船所が建ち並び、大型船を建造するドックの様子を垣間見ることができた。今回の世界遺産登録「明治日本の産業革命遺産」には、長崎県下で8件が対象となった。端島炭鉱以外では、小菅修船場跡、三菱長崎造船所第三船渠、三菱長崎造船所ジャイアント・カンチレバークレーン、三菱長崎造船所旧木型場、三菱長崎造船所占勝閣、高島炭鉱、旧グラバー住宅が登録されている。

 出発地点の常盤桟橋に近づくと、目の前には中国からの大型豪華クルーズ客船「ヘナ号」(写真、4万7,262トン)が停泊。その美しさと大きさに圧倒されてしまった。 

※参考文献:「軍艦島の遺産」(長崎新聞新書)、「軍艦島」(あっ!とながさき観光資料)


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