悠悠録

ひとりで生きる

平峯 悠

 最近の世相で特に気になっていること、1つは、高齢化社会では孤独で寂しい年寄りが増えるという論調、もう1つは、若い世代を中心にした仲間や友達がなければならないという風潮、3つ目は、大規模災害への人々の向き合い方、対応の仕方である。

 孤独で寂しい生活を送る高齢者はかわいそう、みんなで助けなければならない、そのためにもコンパクトシティー化の極論として駅前に高齢者のための住居を供給し行政等が面倒見やすいようにする、また、高齢者施設が少ない首都圏から地方の余力のある地域へ高齢者を移住させるなども議論に上る。そんなに過度に年寄りの面倒を見なければならないのか、高齢者が本当にそう願っているのか(どうしても手助け必要な高齢者は別の議論)。

 一方、若い世代では、幼いときから友達や仲間を大切にしましょうという教育が徹底し、仲間はずれになることを恐れ、ひとりになると精神的に落ち込み自殺するという事例も発生している。誰かとつながっていなければという強迫観念から、ネットでの出会いを求め、そこで知り合った人との間で事件やトラブルを生ずるなどの問題が頻繁に起こっている。

 さらに、阪神淡路・東北大震災はじめその後の自然災害を契機に、「絆」や「ボランティア精神」の重要性が世間の常識となったが、逆にマイナス面として、自ら生きるという考えが置き去りにされ、誰かが助けてくれる、特に行政への甘えも生み出したのではないか。自助、共助、公助という言葉が流行であるが、東南海地震による大災害予測、また仮に富士山が爆発したときなどに公共や行政に何ができるのか、地域コミュニティーの対応はと考えたとき、「助」はきれい事にすぎるのではないか。

 日本の古来からの教えは「人間生まれてくるときも死ぬときも一人、だれも一緒してはくれない」であり、昔の人はみんなそう言っている。現代日本の哲学者・山折哲雄氏は、「ひとりの哲学(新潮選書)」のなかで、親鸞、道元、日蓮、一遍らの先達の教えから、現代における「ひとり」の哲学の必要性に言及している。一遍上人の言葉というのは「生ぜしもひとりなり。死するもひとりなり。されば人と共に住するもひとりなり。そひはつべき人なき故なり」である。日本は島国であり通常は温和で、安定した植生は山の幸を育む。しかし時折台風や地震・津波に襲われるものの一過性であり、じっと堪え忍べばもとの穏やかな状態に戻る。この日本の風土が「もののあわれ」や西欧とは異なった「死生観」や「自然観」を生み出してきた。自然と人間は一体であることを素直に受け入れている。

 独居や孤独で何が悪い、仲間が少なくて何が問題か、何時どこで起こるか分からない大災害に過度に恐れ、誰かに助けを求める必要があるのか。技術により災害の被害を少なくする努力は当然としても、それ以上の大災害には為すすべがない。できる限り身の安全を図り、通り過ぎるのを忍耐強く待ち、その後の災害修復に全力を尽くすことしかできない。

 誤解のないよう付け加えると、日本人の優しさや絆を大切にする心、助け合いの精神、弱者へのいたわりなどを前提とした豊かな社会を目指していくのは当然ではあるが、突き詰めると所詮人間はひとりである。高齢化による単身世帯の増加、家族構成の変化、少子化、地域間格差(極端な例は限界集落)、教育、複雑な親子関係、頻発する災害などのなかで、ひとりで生きる覚悟について考えることも必要であると思う。


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