主張

大阪こそ「民が創るまち」に

岩本康男

 宇沢弘文氏の新書「人間の経済」は今年4月に発行された。2014年に亡くなっているから、生前の講演やインタビューがベースになって出版されたものなので、少し違和感を覚えるところや、エキセントリックな表現があるが、著者の反抗精神が随所で見られる。1974年に出版された「自動車の社会的費用」は衝撃的だった。開発による自然破壊や車優先の道路整備、交通事故、公害など、市民側から見た社会問題を鋭く追及し、「社会的共通資本」という論を展開した。自分が正しいと思うことを遠慮なく言うので、政府の委員会などに呼ばれることはなかった。経済学者というのは、何よりもこの時代をどう生きるかを問われる学問の徒と考えられるが、今のリフレ派の言動はそのようなミッションからほど遠い。時の政治権力を支えることしか念頭にない。

 今はやりの言葉は「忖度」だ。モリやカケは氷山の一角だと思われるが、役人はトップの意向にもともと弱い存在だ。その上、人事権を官邸に握られているから、悔しい思いをしている者も多々いるだろう。組織の中で生きていこうとしたら、面従腹背しかない。しかし、これはあまり楽しいことではない。ストレスや組織の分断を招き、官庁のパワーを削ぐ。国民にとって不幸なことだ。

 この点では、アメリカの方が健全である。司法やメディアは大統領の独走に歯止めをかけようと奮闘している。イスラム圏からの入国制限には、州の司法が抵抗しているし、パリ協定離脱には地方が反対攻勢をかけている。連邦制と中央集権体制の違いだが、それにしても日本では気骨を持って生きることは中々難しくなったとぼやきたくなるのは、年を取ったからなのだろうか。

 一番心配なのは、国家公務員も大阪府市職員も若者の就職対象から見放されることである。大阪市では橋下さんが市長になってから、区長や局長,校長を公募にして、何人かは組織に到底合わない人が採用されて大混乱する職場もあった。市民サービスや学校教育が向上したという話も聞かない。大阪府の教員募集倍率は全国で最低レベルだ。人材の確保は中央でも地方でも、しくじればボディブローのように効いてくる。

 「隗より始めよ」これは春秋戦国時代、優れた人材を集めることが、国を栄えさせる戦略だったときに、燕の王がまず家臣から優遇したら、良い人材が大勢やって来たという逸話だ。使用人扱いして叩くことが受けるような国や地域が長期的に発展するはずがない。

 特に影響を受けるのが、街づくりに関わる長期計画だ。短期的な効果や収支にばかりにとらわれていると、街の将来像とか息の長い都市再生のような業務が重視されなくなる。阿倍野再開発を事例にすると、昭和51年度にスタートしてから実に41年もかかった。その間バブルもあり、最終的には2千億円に近い赤字になると聞いている。吉村市長は「民間なら倒産、負の遺産で反省すべき事業だ」と評したと報じられた。しかし、老朽木造建物が密集し、貧弱な道路しかないかつての姿や、断層の走る上町台地の端で、しかも広い後背地を持つターミナル地区であるという視点は行政としてどう考えるのか。28haに権利者数3千人以上という条件をどう考えるのか。土地の価値を上げ、企業活動や税で還元させるしかないのなら、公共でなければできないことである。

 民でやるべきこと、官でしかできないことを峻別したまちづくりの役割分担が議論されるべきだ。もともと、大阪市のまちづくりは民の力によって大いに進められてきた。江戸時代の町橋はよく知られているが、近代になっても、市電による道路拡幅、橋梁架け替え、組合施行の土地区画整理事業による道路、公園整備、御堂筋や下水整備での受益者負担制度など、民活の街だ。現在では、地区計画や特区制度を使った民間開発に伴う公共貢献、エリアマネージメントによる公共施設の管理など。

 「お奉行の名さえ覚えず年暮れぬ」を理想にして、町衆による自治で、商業も学問も文化も振興を図った方が大阪らしいのではないか。副首都になろうとか、東京ばかり意識した言動ではいつまでたっても大大阪になれない。


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