悠悠録

人材枯渇

平峯 悠

最近の「桜を見る会、森友・加計問題」等の国会の論戦で、追求する議員と答弁する大臣・官僚等の情けなさにはあきれ返る。正義を振りかざす理屈と逃げまくる姿勢などは見るに堪えない。過去の国会では、成熟した国および国家の安全のためにはどうしてもゆるがせにできない問題に対する論争であった。それに比べてなんだ。見苦しい追及が続いている。「こんなことに時間を費やすな!」「幼稚な学芸会並みである!」と叱責する人はいないのか。

福田和也氏は「人間の器量(新潮新書)*」の中で、戦後、勉強のできる、健康で、平和を愛する人は育てたが、陶冶するとか心魂を鍛えるということを全く埒(らち)の外に置いてきた。その結果、小利口で目端が利いて、真面目であるが到底人物とは言えない、深みもなければ重みもない、志がなく、演出と自己陶酔があるだけで本当の感動がない、など一刀両断にしている。まさにその通りで日本人が小粒になってきているのではないか。大阪でブームを巻き起こした橋下徹氏は戦い上手であったし、その突破力には感心したものではあるが、人の上に立つ「器」とはいいがたい。身を切る改革は人を育てる環境すら奪ったのではないか。関西は人材の供給地域といわれたが、政界・財界また学会においても人材が育っていない。最近では弁が立ち法律のみに詳しい弁護士や、経験豊富で面白い喋りができる芸能人がメディアで重用されるが、重みも心服する論を聞いたことがない。

善悪や良否という敷居を超えてしまうような人間観、その物差しとしての器がある(*)。過去、私が思う人間的な魅力、大きさ・深さを持つ器の大きい人物として、政治家では田中角栄、中曽根康弘、塩川正十郎、財界人では石坂泰三、土光敏夫、松下幸之助、言論界では大宅壮一、司馬遼太郎を挙げたい。これらの人々を頂点として自らの器を大きくしようと切磋琢磨してきた人たちが日本を支えてきた。しかし最近では、日本人は小粒になり、それが人材枯渇を招き、地域・地方の衰退につながっていると思う。器を大きくするには生死に対する覚悟や使命感が必要で、細分化された仕事や立場に拘泥していては無理であろう。学問の分野でも専門分野が細分化されてきたため、大きな意味での教養や人間力の面白さを示唆し、世の中をリードする学者やオピニオンリーダーが少なくなってしまった。江戸期の武士は朝には死にざまを頭に描いて覚悟を定め一日を過ごす。また明治期や昭和初期の人々は戦争=死という現実に直面していたため、それを克服するため心の鍛錬が重要であった。死や苦悩を乗り越えることによって人間の器を大きくすることが可能になるのではなかろうか。

「あの人がいるから安泰だ!」「組織を立て直す人だ!」などの評価がされるのは器の大きい人が中心にいるからであろう。効率重視や要領の良い人、優秀な人だけでは何も良くならない。人材枯渇は地域にとって由々しき問題である。自分のことを棚に上げて言えば、志をもって常に修行する、自分にこだわらず相手をおもんばかる、身をささげる、という教育や生き方がこれからの社会で特に必要とされると思う。


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