「世間」

ピーシー橋梁(株) 鎌田 徹

 阿部謹也によると、「世間」というのは、日本の伝統的なシステムであり、これは、内部で序列があり、コミュニケーションは、挨拶とか、立ち居振る舞い、等も含めた表現をとる。排他的である。(注)

 「世間」は、住んでいる地域でのコミュニティにだけ存在するのではない。学問世界にもあるという。学者は、自分の属している「世間」に対して論文を書く。学校の同窓会もまた「世間」である。1999年のJCO臨界事故は、このような「世間」の悪癖の典型例ではないか。集団の中で、誰も間違いを正そうとはせず、信じられない手抜きをやって、ついに臨界事故が起こった。

 旧来の村でなくても、たとえば、新しく形成された団地などで、小さな子供を持ったお母さん達も世間を形成していて、新たに生まれた子供を抱えて、初めて公園に行くとき「公園デビュー」といわれるほど大変なことになっている。

 「世間」には、一定の掟があり、それを破ると仲間はずれにされる。したがって、「改革」ということはなかなか起こらない。しかし、「世間」というシステムが、一概に悪いシステムとは限らない。

 大阪船場の商法は、太く短くではなく「いかに長く続けるか」ということに、最大の注力が傾けられると聞いたことがある。長年の経験を元に、「継続」という面では、「世間」は有効に働いているのではないかと思う。

 一方で、明治以降、教育、政治、経済、法律などの社会基盤は、西洋から導入され、これらは、合理主義であって、是々非々という個人の考え、行動、責任が認められるシステムである。

 同氏によると、西欧では、個人が生まれたのは12世紀で、そのきっかけは、キリスト教の「告解」の普及と都市の成立であるという。

 この、2つのシステムの間に、矛盾がある。それを、建前と本音と理解することもできる。人々は、皆この矛盾に悩まされているのではないか。

 このような中にあって、どのように、「世間」内の間違いを修正し、環境の変化に対応し、新しい価値を生み出すシステムにするか。阿部謹也は、とくに学問の世界では、「世間」をまず解体しなければならない、と言っている。

 しかし、伝統システムである故に、その他の世界では、そう簡単に解体できるものではない。まず、自分の考えを確かめ、確信までもっていき、そして、自分の属している「世間」をよく理解し、「世間」内で信頼を得、その「世間」の言葉で、意思伝達、説得をしていくことしかないのではないかと思う。その中で、次の規範へと発展させることではないか。

 私なんかは、役所OB、会社、学校、地デ研、枚方まちづくりネット、枚方LRT研究会、全建大阪府支会等、いろんな「世間」に属し、とっぷりと浸かっているので、それぞれの間の矛盾も自己の中にため込んでしまっている。(もっとも、地デ研だけは、「世間」というより、個人の集まりの度合いが大きいように思うが。)

 ぼちぼち、自分自身のアイデンティティを見つけないと。

(注)参考文献:学問と「世間」、阿部謹也、岩波新書2001年


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