わが街紹介
−三都物語−

羽衣国際大学助手 小川雅司

「三都物語」といえば、谷村新司の曲とともに、京都・大阪・神戸を思い出すのは私だけではないであろう。確かにわれわれ関西人にとって、三都といえば、京都・大阪・神戸なのかもしれない。しかし、私にとっての三都は京都・大阪・神戸ではなく、日々の生活と深い関わりをもつ、3つの「まち」である。

1976年、私は兵庫県西宮市の上ヶ原(うえがはら)に生まれた。上ヶ原は西宮市の中部に位置し、関西学院大学をはじめとする学校−ちなみに神戸女学院大学は上ヶ原ではないが、近くに位置する−が立地する文教地区である。登下校の時間になると、多くの学生があふれる、ちょっとしたプチ大学まちである。

他方、震災後に一部がマンションに転化したが、周辺にはまだまだ多くの田畑が残っており、いなかとしての顔も持っている。梅雨の季節になると蛙の合唱が始まり、特に夜は周囲が静かゆえに大合唱となる。電話する友人から何の音かとしばしば、たずねられるほどである。

また、裏山には大きな溜池が2つあり、幼少の頃はよく友人と魚釣りをした。そして、その場から山奥に向けて1本の道が伸びている。探検と称して、その道を奥へ奥へと進んだこともあり、キジを見つけて驚嘆した思い出がある。その道はかつて、山陽新幹線のトンネル工事のために建設されたものであり、決して立派な道路とは言えないが、依然として、木々にのみ込まれることもなく、その存在は明らかである。また、夏になると近くの清水では蛍を見ることができる。

このように、上ヶ原には手の届く範囲にたくさんの自然があり、まさに「自然の宝庫」と言ってよいほどの環境に恵まれている。

しかし、緑あふれる上ヶ原であるが、悩ましい点が1つある。それは坂が多いことである。上ヶ原はちょっとした丘の上にあり、最寄駅−阪急甲東園や西宮北口−まで行こうとすると、ちょっとした運動になる。行きは下りで良いが、帰りは坂が大きな壁のようにそびえ立っている。「行きはヨイヨイ、帰りはツライ」−上ヶ原の地形をうまく形容しているのではないだろうか。

1994年、大阪府東大阪市の御厨(みくりや)に通うことになる。これまで生活は西宮市が中心であったが、その舞台は大きく御厨へと移った。

御厨は東大阪市の西部に位置し、かつての布施市−東大阪市は昭和42年、布施・河内・枚岡の旧3市が合併し、誕生した−の一部にあたる。東大阪市は日本でも有数の「中小企業のまち」として知られ、大学の近くには多くの町工場が見られる。といっても、学部時代には東大阪のまちのことなど何ひとつ知らず、街路樹や道路の整備に手が行き届いていない、緑の少ないキタナイまちだなぁ、と思う程度であった。

だが、地域政策学を研究する大学院に通い始めてからは、積極的(!?)に東大阪市に興味を持ち始めた。院生のなかには、中小企業の経営者やコンサルタント、それに市役所の職員の方がおられ、いろいろと新しいことを教えて頂くなかで、まちづくりのむずかしさを知ることになった。

大学の北側にはかつて、いくつかの町工場が経営を営んでいたが、景気後退により、それらは消えてなくなり、新たな住宅地へと変化した。また、近鉄沿線の商店街には「歯抜け」が目立つようになり、他方、量販店やスーパー−例えば、コジマやイト−ヨーカドー−が沿線から離れたところに立地し始め、商店街の存在を脅かすようになる。その他、インナーシティが抱える様々な問題を目にすることができる。

それでは東大阪がダメなのかと言えば、そうではない。東大阪には大きな「力」がある。大阪商業大学に通って今年で9年目になるが、9年ともなると、地域の方との様々な付き合いがある。時々、東大阪のおやじやおかんと一緒になるが、そのたびに彼らのパワーと人情にいつもビックリ!させられる。とにかく、勇ましいのである。

東大阪市をお世辞でも、オシャレなまちとは言えない。しかし、人と人とが語り合うまち、人間味あふれるまち、それが司馬遼太郎も愛した、東大阪市の魅力ではなかろうか。

2002年、大阪府堺市・高石市の羽衣(はごろも)に勤めることになる。

羽衣国際大学は、80年の歴史を持つ羽衣学園を母体に、従来の羽衣短期大学を一部改組し、今年4月に開学、産業社会学部を開設した。実学主義を旗印にユニークな試みが展開されつつある。

羽衣は大正末期、大阪郊外唯一の高級住宅地・保養地であった。現在でも、そのたたずまいを残しており、裏道に入ると立派な邸宅を目にする。また、自転車で海側に出て、周辺をぷらぷらと散歩していると、ハッと驚かされることが多い。

まずは、南海本線・浜寺公園駅舎である。この付近一帯は明治時代、海浜リゾート地として栄え、多くの観光客が訪れたと聞く。そのため、駅舎設計には特に力が注がれ、赤煉瓦の東京駅を設計した辰野金吾・工学博士によって設計された。美しい木造駅舎は今も健在である。

また、浜寺公園は松林などの緑が豊かで、昔から「白砂青松の地」として知られている。園内には、与謝野晶子と鉄幹の出会いを記念した歌碑「ふるさとの泉の山をきはやかに浮けし海より朝風ぞ吹く」がある。

さらに、ペダルをこぎ、北上すると旧堺燈台がある。これは、昭和10年に町民の寄付によって建設されたもので、現存するものではわが国最古の木造洋式灯台であり、国の史跡指定を受けている。

このように、堺市と高石市には由緒ある観光スポットが多く存在し、立派なベイエリアを形成しているが、ここで残念なのが臨海工業地帯の存在である。臨海工業地帯が大阪の経済発展・成長に寄与したことは認めるが、もし、工業地帯が建設されていなければ今日のベイエリアはどうなっているのだろうか−そう思い、考えることが「地域デザイン」のはじまりではなかろうか。


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