祭りとまちづくり

財)堺都市政策研究所 金田 徳藏

泉州地方は、祭が好きな人々が多い地域である。特に岸和田といえば、だんじリ祭で全国に知られているが、やはり町のシンボルは何と言っても岸和田城である。岸和田城は、1334年(建武元年)ごろ、楠木正成の一族、和田家(堺市)が現在の岸和田市野田町付近に城を築いたのが最初とされ、「岸和田」の地名も「岸の和田」から由来したと言われている。

岸和田の城下町は、紀州街道を中心に整備されているが、寺院は、城下町への出入り口にあたる道路周辺に集中的に配置されています。これは、城を敵から守る要塞の役目を寺院に持たしています。

また、城下町では、敵の進入速度を落とすため、無理にS字型に曲がった道路を作っているが、現在これがだんじリ祭の見せ場の一つになっています。なお、だんじりは祭りの道具として役割だけでなく、だんじり小屋を町の要所に配置し、敵の進入時には、これを引き出し、敵の侵入を妨害するなど、バリケードの役割を担っていたとの説もあります。

だんじり祭りの始まり今からおよそ300年前の1703年(元禄16年)岸和田三代城主岡部長泰が京都・伏見稲荷を城内の三の丸に勧請し、五穀豊穣を感謝する稲荷祭を行い、城下の庶民に参拝を許したところたいへん賑わい、このとき長持ちに車を付けた「だんじり」に太鼓打ち等を乗せ城内に入り、二の丸御殿の前では、神樂獅子を踊ったり、にわか芸などを披露して、お殿様のご機嫌を伺ったのが始まりとされています。また、200年前頃より、祭り運営の最高機関である年番制度も発足されていて、今も市民自らの手で祭が運営されています。

祭りの組織と運営祭りは、町会・年番の両組織がうまくかみ合ってとり行われています。町会長を総括責任者とし、祭礼団体では、曳行責任者を長としています。また、大工方など担当部署別にも長があり、形態的には、各々ピラミッド型の組織が組まれていて、縦型の統制がはっきりとしています。したがって、全国の祭り関係者の注目の的となっています。なお、年番は、昔の浜(漁村)、町(城下町)、村(農村)の三地区(三郷)から1年毎の輪番制で選ばれ、互選で選ばれた年番長は、その年の最高責任者となっています。

する必要があり、工事関係者も祭りに合わせた工程を組んでいます。また、道路は、だんじリの曳行する事が前提であり、岸和田駅前商店街のアーケードは、だんじリが曳行するために天井を高く作られています。南海本線の連続立体の高架下の駐輪場は、だんじりが曳行する道路側は、見物客による混乱を避けるため、窓が作られていませんし、岸和田駅のホーム上から見えないよう祭り期間、道路側の窓には、ブラインドを取り付けています。この様に街の整備や公共施設なども、祭りに配慮した造りとなっています。

自治会活動も祭りを中心にまとまり、その町内に住んでいない住民も、祭りの運営のために町会に所属し、青年団活動をしている住民が多く存在します。

祭りも産業全国各地から南海本線岸和田駅西地区の約50ヘクタールの地区に50〜60万人の見物客が押し寄せる祭りはまさしく観光産業でありますが、観光だけでなく祭りの関係する物作りに携わっている職業の人々がいます。

だんじりを作る大工(工務店)、彫り物を彫る彫物師、装飾用品の制作、はっぴを作る染物屋等多くの人々が祭りを支えています。

祭りは文化祭りの形態は、地方によっていろいろ異なっています。

ふとん太鼓では百舌鳥八幡宮の祭りが有名でありますが、ここの祭りは、今も旧暦の8月15日中秋の名月に行われています。また、堺市の旧市街地と湊地区もふとん太鼓があります。その他の泉州地方は、だんじリ(地車)ですが、堺から離れた貝塚寺内町の夏祭りはふとん太鼓であります。泉南地方のだんじりは、岸和田と同じ前梃子によって止めたりやりまわしを行っていますが、泉北地方のは、担ぎ棒によって回す形態があります。また、泉南地方も田尻より南では、だんじりでなく、「やぐら」と呼ばれ、大八車のように二輪車で出来ていて小回りの良く出来る地車であります。これら祭りの形態の違いは、その地方の文化圏の違いによるものと考えられます。

※「資料」各市町のだんじり台数

○堺市67台

○高石市17台

○泉大津市20台

○和泉市29台

○忠岡町4台

○岸和田市78台

○熊取町11台

○泉佐野市11台

○田尻町1台

 


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