視座を変える

地域デザイン研究会 代表 平峯 悠

先日、奈良を縦断する京奈和自動車道「大和北道路」の計画についての意見が、新聞の折込として各戸配布されてきた。当道路は文化財等の関連で計画が確定出来ないため、大和北道路有識者委員会が、行政、経済界、観光、寺院、運輸交通、文化財、文化保護団体、その他9分野15名の人々に意見を聞いたものである。しかし所属する分野や組織を代表した意見というのは、構成員個々では意見の違いがあっても、全体として物の見方が固定されている。その意見の内容をここで紹介しなくても、また読まなくても大体推察できる。立場を強調しているだけなのでこのような意見掲載は殆ど意味を持たない。(※)

デュッセルドルフではライン川沿いの道路を景観や空間を人々に取り返すべく1987年から工事費48,500万ドイツマルクで地下化し地上を公園・プロムナードとして再生した。車と人間、景観と道路、まちにおける自動車のあり方に対する国民的な価値観や文化というものがそれを可能にさせたのであろう。ボストンの高架高速道路を地下化した事例も同様である。日本であれば新設の都市高速道路ではやむを得ず地下にすることもあるが、既存の道路を莫大な費用をかけて地下化するなどの発想は一笑に付されてしまう。

いつも持っている特定の見解や物の見方を「視座」という。視点よりも深い意味を持つもので、パースペクティブ=見通し、つりあいの取れた見方に近い。ものの見方や価値観は自然観、宗教観、思想、生活様式、風土などによって形成され、民族・国・地域等によって異なる。上記の既存道路の地下化の事例は「視座」が違うと表現するのが適当である。現代日本における外交、経済、社会問題、教育、まちづくり等に対して明確な「視座」を持っているといえるのであろうか。どちらかといえば属している組織やそれが置かれている立場にたった意見が中心で偏った「視座」にあふれている状態といえよう。

しかし産経新聞オピニオンプラザ―私の正論の第346回のテーマ「デフレにどう対処するか」の入選作、佳作に選ばれたのは少し違っていた。物質的豊かさの影で失われた日本の精神文化を再認識し、新しい価値を見出す絶好の機会であるとの論で、デフレへの対処を経済の問題として見ていない。大量消費・大量生産社会への反省としてモノを大切にし無駄を省き、日本の伝統文化を再認識することが新しい消費環境をつくる、精神文化の再構築がデフレへの対処の第一に挙げている。誠に正鵠を得た「視座」である。

視座を明確にするためには、自然と人間との関係、国家の歴史、科学文明の進展と伝統・民族文化との対立等に対する洞察力を持つことが不可欠である。社会の有能なリーダーや指導者、知識人は必ずといってよいほど、その国の伝統や歴史に裏付けられた「視座」を持っている。それがその人を判断する尺度といっても良い。知事、市長、議員、財界人、評論家、組織のトップをその見方で判断したとき合格するのは誰?

視座を変えると世の中や生き方も変わる、言い換えると既存の立場から離れモノの見方を変えてみる。その結果新しいものが生まれ活性化する。構造改革や革新というのは「視座」を変えることによって達成できる。まちづくりにおいても経済的効率や単なる利便性を求める視点からは脱却しているが、安心、豊かさ、楽しさ、暮らしやすさなどに対する具体的な視座、都市再生の明確な視座を持っているとはいえない。

豊かな自然環境、きれいな空気、使いやすい電車・バス、楽しくなる街並みと歩行空間、人情味溢れたまち等を実現することを都市の共通の「視座」として定着させねばならない。それがこれからの新しい公共事業や社会資本整備につながっていく。

※9月30日有識者委員会がルートを答申したが、文化財関係者は依然反対している。


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