大阪府 中尾恵昭
守口市 吉川一典

ヨーロッパ大遠征、男達4人の旅はオリンポスの神々が宿るギリシャで最終章を迎えた。意気揚々とアテネに入った我々は最後の最後で日本に帰れないような事態に遭遇する事件が起ころうとは、その時知る由もなかった。

Z.ギリシャ(アテネ)

1月12日19;45ローマ レオナルドダビンチ空港発OA240便
            22;40アテネエリニコン空港着

空港に着いた我々は早速両替を済ませ、タクシーでホテルに向かい(30分程、3,000drsドラクマ≒1,000円)、チェックインした。そのホテルは市内の繁華街プラカ地区に近く、アクロポリスの丘の麓にあり、朝食付きツインで7,000drs/人のさえない三ツ星ホテルであった。事件は翌々朝帰り際にこのホテルで起こることになるが、それは後述することとする。

翌早朝からヨーロッパ大遠征最後の旅が始まった。

アテネは神々の伝説とともに生き、都市国家(ポリス)を形成し崇高な文明が発祥し繁栄する一方、トロイ、スパルタ、ペルシャ、ローマ、オスマンなど幾多の戦に翻弄され、支配された歴史を持つ遺跡都市である。その一端を垣間見るべく、まず我々はオールド・アゴラに向かった。ここは市民が政治経済などについて議論した場所で、かのソクラテスも哲学論を交わしたと言われる。そこから一気にアクロポリスの丘にのぼる。丘を上がるとその頂上に古代ギリシャ建築の最高傑作といわれるパルテノン神殿が威風堂々と紺碧の空にそびえ立っている。至るところ修復中であったが、その華麗さ、荘厳さは筆舌に尽くしがたい。当時は内部に象牙と黄金でできた巨大な守護神アテナ像が極彩色に輝いていたという。しばし、そこに立って空気の匂い、風の音を全身に浴び、紀元前にタイムスリップする。眼下にアテネの街並み、目を上げればアテネ市街のほぼ中央にアテネ1の高さのリカベトスの丘が凛々しくその姿を見せている。

去り難い思いを胸に、エレクティオン神殿、ディオニソス劇場、ヘロデス・アティクス音楽堂を巡る。アクロポリスを仰ぐ円形で石造りのこの音楽堂は1800年前につくられ、毎年夏にアテネフェスティバルが開催されてギリシャ古典劇やクラシック音楽が上演され、この国が生んだ世紀のプリマドンナ、マリア・カラスを偲ぶ催しが行われる。神を戴いた古代ギリシャ人は、都市国家の中心に神殿を、周囲にアゴラや劇場を置いた。アゴラが生活や討論の場であるのに対し、劇場は神に捧げる演劇の場であったという。

アクロポリスの丘を東に下ると、環状の幹線道路の脇にハドリアヌスの門がある。AC2世紀、時のローマ皇帝ハドリアヌスが当時の旧市街と新市街の境界として立てた門で「ここはハドリアヌスの都、もはやテセウスの都にあらず」と刻まれている。都市、街の境界、線引きの概念が頭をよぎる。ほど近くにゼウスに捧げられたオリンピア神殿遺跡の柱列が並んでいる。さらに歩くと、1896年近代オリンピックの会場である馬蹄形のスタジアムがその威容を誇示している。この都市も古代、中世、近代が珠玉のごとく連なり不思議なハーモニーを奏でており、都市の魅力を際だたせている。

昼近くになって、そこからタクシーで市街地の北側にある国立考古学博物館に向かう。ほんの3km四方にアテネの市街地、繁華街、広場、主要な遺跡がすっぽり納まっている。もちろんその中には大統領官邸、国会議事堂、国立図書館、博物館、美術館、アテネ大学、アカデミー、教会、大使館、さらには国立庭園も含まれる。端から端まで1時間程度の徒歩圏。知、学、遊の生活圏の中にアクロポリス、リカベトスの丘がそびえ、崇められる地勢を持つ。まさに生活の中に神を感じ共に生きる環境がそこにあった。これが都市国家、ポリスのゆえんであろう。

さて、国立考古学博物館。古代エーゲ文明からミケーネ、ヘレニズム期まで遺跡から出土した膨大なコレクションを揃え、ギリシャ神話に登場する躍動感溢れる神々のダイナミックでしなやかな姿を表す青銅像やレリーフ、フレスコ画を初め、考古学者シュリーマンが発掘した「黄金のマスク」など、まばゆいばかりの収蔵品を堪能できる。この中に身を置くと山や海を駆けるヘラクレス、ポセイドンなどのアポロンの神々の姿が蘇るようだ。現在は大多数の人がギリシャ正教を奉じているが、古代ギリシャ人は日本人と同じく多神教であったようだ。人々はこれらの神々から恩恵を受け、また翻弄され、生命を脅かされたことであろう。

遺跡、博物館で壮大な歴史を身をもって体験した我々は、現在の街の生活を体感しようと地下鉄で繁華街の一つであるオモニア広場に向かう。アテネの地下鉄は階段を何段か下りればそこがプラットホームで、やけに地下の浅いところを電車が走っている感覚がした。6本の大通りが交差するこの広場は人が多くごった返しており、下町の活気が溢れ、夜ともなればその賑わいは増幅するという。近くの百貨店に入ると、ここも品物で溢れかえっている。何よりも女性が魅力的で、胸もヒップも並はずれて大きいが、その様は、まるでビーナス、アフロディティ。見とれて立ち尽くし、目が点になる思いであった。

日も傾きかけ、タクシーでリカベトスの丘にのぼる。ここからも市内が一望でき、さほど高い建物はなく、白い屋根が並ぶ様は地中海の街の風体をなす。遠くにアクロポリスの丘の上に立つパルテノン神殿の柱列がこの世とは思えぬ姿で夕日に映えてひっそりと神々しく林立している。ケーブルカーで丘を下り、アテネの中心地シンタグマ広場へ出る。国会議事堂の下、独立戦争で散った無名戦士の墓の前では中世の伝統的衣装に身を固めた衛兵の交代式が行われていた。

食事を摂ろうとアテネ第一の繁華街プラカ地区に行く。19世紀の佇まいを残した旧市街地で、入り組んだ小道にタベルナ(ギリシャ料理店)や土産物店が軒を連ねる。その中の一軒に入り、魚介類の地中海料理、山羊の乳から作ったフェタチーズ、香辛料やオリーブオイルをふんだんに使ったエキゾチックな串焼き、スブラキを食す。酒は無色透明の液体だが水で割ると白濁する「ギリシャの火酒」ウゾ、松ヤニの香りと味が溶け込むワイン、レツィーナ。どこからか民族楽器ブズキの演奏も聞こえてくる。このあたり一帯はさながら不夜城だ。ヨーロッパ大遠征最後の夜はここプラカで最高潮に盛り上がり、宴もたけなわとなった。ここアテネは聖と俗が混然一体となり夜は深々と更けていく。

心地よく酔いがまわり気分は最高だが、翌朝の出発は早く、旅の荷物も散乱していることを思いホテルに帰ることにする。フロントでキーを受け取り部屋に入ったのが12時半。入ったはいいが、電気が点かない。早速フロントに言うとやたら調べたあげく、ろうそくを持ってきて故障だからこれで夜を明かせと言う。冗談じゃない、明日は帰国の日、荷物も纏めなければならない。フロントに掛け合い、他の部屋、ホテルを要求するが「無理」の一点張り。こちらはツーリストの本社ロンドンに電話し、その状況を訴える。そのうち痩せた電気技師が呼ばれ修理が始まった。その間、狭いロビーで待ちぼうけをくわされ、やっと回復したのが午前2時。それから荷物の整理をし、寝たのが夜明け前。7時30分ホテル発の予定で早朝に起床し、チェックアウトすると出された請求書には宿泊代の他に電話代。これは何だ。ホテルの不手際のせいでかけたロンドンまでの電話料金が請求されている。事情を話したが取り合わない。フロントが替わっており引継もされていない。「払え」、「払わない、払う必要はない」と押し問答。「払わないとポリスを呼ぶ。外へは一歩も出さない」と両手を拡げドアを封鎖する。大した電話代ではないが、気持が納まらない。しかし、飛行機の時間が迫ってくる。このまま帰れないのか。とその時、修理した電気技師がロビーに現れた。事情をフロントに言うよう身振り手振りでお願いすると、何やらフロントに言い、おかげでやっと解放と相成った。呼んでいたタクシーに飛び乗り、やっとの思いで空港に辿り着いた。

今にして思えば、あれはアポロンの神々の悪戯だったのか………。

1月14日10;30エリニコン空港発TK1846便
     11;45トルコアタチェルク空港着
     17;15アタチェルク空港発TK48便
 1月15日10;45関西国際空港着

2001年1月5日から15日まで、新世紀初頭のヨーロッパ大遠征は無事?終わりました。訪問地は5カ国8都市。トルコ(イスタンブール)、スペイン(バルセロナ)、オーストリア(ウィーン、バーデン)、イタリア(ヴェネチア、フィレンツェ、ローマ)、ギリシャ(アテネ)。正確にはバチカン市国を入れて6カ国9都市になるでしょうか。

言語も通貨も5カ国全てが異なっていました。今思い返してもどこがどうやら整理がつきません。しかしながら、全ての国がそれぞれ特徴があり魅力的でした。4人各自が各都市を担当して行程を組み、朝早くから夜遅くまでフルに活動しました。各都市での移動は基本的には徒歩で、極力地下鉄、バス、路面電車を使い、あとはタクシーでした。相当歩き、慢性寝不足症に陥ったハードな旅でした。でも、そのため街にも人にも触れあえ、有意義な旅になりました。ハプニングも何度かありましたが、それはそれで今となってはいい思い出となりました。全般を通してほぼ完璧な成果が得られたと思います。

長い間の連載をご覧戴き、ありがとうございました。

グラッテェ、そしてアディオス。(おわり)


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