「都市再生」を問い直す

地域デザイン研究会 代表 平峯 悠

昨年の大阪市長に続き、2月1日に大阪府知事が決まった。これらの選挙戦でも「都市再生」という言葉が頻繁に使われたが、そろそろ陳腐化してきた。

都市再生とは一体どういうことでしょう。雇用を拡大し景気を良くする、高齢化など社会の変化に対応する、阪神ファンの飛び込む道頓堀川等をきれいにする、密集市街地での道路整備や建替えを中心とした不燃化やクリアランス、環状道路の整備などにより交通渋滞を解消するなど、これらは過去半世紀にわたって進めてきたことと特に変わりはない。

「再生」というのは、@死にかかったものが生きかえる(蘇生・復活)、A精神的に生まれかわる(新生)、B以前に経験した事象等を思い出す(想起)、C失われた生物体の一部が再び作られることなどである。欧米では、人々の生活から見て都市が死にかかっているという認識から再生が論じられている。LRT導入で有名なフライブルクに代表される公共交通を中心としたまちづくりは、経済効率から脱却し、人間そのものを再生しようとするものである。ルネサンスという言葉が良く似合う。その根底にある都市の思想はJ.ジェイコブスの「アメリカ大都市の死と生」にあるといってもよい。

日本の都市政策の根本的な欠陥は、どのような街にするかという理念や目標を持たず、「対策」中心のまちづくりを進めていることにある。しかし対策というのは一時的で、する側は楽しいが画一的で押し付けになり、される側は不愉快なことが多い。「官(行政)」が嫌われるのはそのせいかもしれない。今日本に必要なのは「豊かな社会」を目指し生まれ変わることであろう。宇沢弘文の「豊かな社会」を要約すると、全ての人が己の能力を生かした仕事に携わり、その貢献に相応しい所得を得て、家庭を営みつつ多様な社会的接触を持ち、文化水準の高い一生をおくることが出来るような社会と言う。そのための基本的諸条件として「自然環境」「住居」「教育」「医療サービス」「経済社会制度」をあげている。一昔前の日本の街は、一軒家から長屋、神社・お寺、雑多な商店や町工場、水路や空き地等で構成され、多様な人々が生活し活動していた。その中で地域意識が醸成され、自分の家を草木で美しく飾るなど、日本的な街並みが保たれていた。所得の面では格差もあったであろうが「豊かな社会」の条件が備わっていたと言えよう。

「豊かさ」という視座で都市を再生するというのは、車の制限や建築制限や誘導など都市生活に必要な適正な権利制限のもと、人間優先思想の徹底、混合用途や曲がりくねった道などの多様性を重視し、日本人の伝統的自然観や美意識を醸成してきた木や自然素材を生かすなど、人々の生活のレベルで都市を見直すと言うことである。「複雑なものには、心が宿る」ということに学び、これまでの基準やマニュアル及び方法論から脱却すれば、新たな社会資本の整備が如何にあるべきかが見えてくる。

石原都知事が産経新聞に連載している“日本よ”というエッセイ(2/2付)に、無計画で混乱した東京の都市計画を批判していたが、力のある東京のリーダーが国土計画・都市計画に重点をおいた施策を進め、ディーゼル車規制に見られるような強力な力を発揮することになれば、大阪や関西は都市計画の面でも取り残されることになろう。公共交通を中心とする街、環境や景観をキーワードとしたまちづくり、マイノリティーパワーを集結する街づくりなどこれからの都市再生の方向は既に見えている。関西(大阪)は「民」の力が強いといわれてきたが、都市再生の旗を振る役割は「官(行政)」にある。大きくは道州制の議論から市町村行政のあり方の中でその方向性を示し、徹底した官民連携のもとで都市再生に取り組めば、阪神の優勝以上の効果と喜びが得られるに違いない。


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