主張

欺瞞

地域デザイン研究会 理事長 平峯 悠

 人目をあざむき、だますこと=欺瞞(ぎまん)は人間の恥であり、その行為に対して大きな罪悪感にさいなまれるのが普通の人々の感覚である。しかしながらライブドアやカネボウの粉飾決算、耐震偽装問題など平然と「欺瞞」をはたらきながら、責任逃れや、法の不備を言い立てるという社会になってきている。このような欺瞞には厳然とした対応が不可欠である。

 しかし世の中には社会全体が騙されていながら皆が気づかないということがある。4月29日死去したアメリカの経済学者ジョン・K・ガルブレイス氏は「私的生活または公的な議論の場でも、悪意なき合法的な欺瞞が社会に大きな影響を与え、多くの人々や集団も罪の意識や責任感を持つことなく“悪意なき欺瞞”(※)にくみしている」という。「不確実性の時代」や「豊かな社会」などで日本でも広く知られているが、その悪意なき欺瞞の実例として、社会を市場システムに委ねることが正しいとする欺瞞、GDPの大きさが豊かさを示すという信仰、既に境界がなくなっているにもかかわらず「官と民」からなる経済社会が望ましいという欺瞞などを挙げ、20世紀の文明の虚構を鋭く衝いている。

 真に豊かな社会をつくるために何が必要かという問いかけをしているとすると、私たちの街づくりにも悪意なき欺瞞がないかを見極めねばならない。これまで進められてきた都市計画や街づくりの結果から欺瞞のいくつかを指摘することができる。

 1つは、車社会の進展に対応するという施策である。車を中心とした大型ショッピングセンターの立地や施設配置、車を前提とした土地利用など、結果としてどこに行くのも車を使う人が増え、公共交通機関の衰退とサービス低下を招き、観光地では路線バスさえ廃止に追い込まれる。車社会に疑問を持たないということは社会全体がだまされているのではないか。また、あまりにも偏ってはいないか。

 1つは、都市を民間の力で活性化させることはよいことであるという主張である。先日、京都市は建築物の高さを31m以内に規制すると発表した。日本の中で都市の原型をとどめる京都が都市の伝統と景観、文化を守るために当然の施策ではあるが、遅きに失しているといわざるを得ない。過去の京都駅や京都ホテルの立替では京都でも活性化のためにはやむを得ないという結論を出した経緯がある。全国の都市でも特に経済効率という名の下に地域特性や個性が失われ、画一的になっているのは、活性化という悪意なき欺瞞によるのではないか。

 さらに国際化への対応という欺瞞もある。経済がグローバル化し国際間の垣根がなくなればなるほど、自国の文化や伝統を鮮明にし、それを主張しなければ自らの存在や国際的な信頼を失うことになる。木の文化といわれる日本で国産の木材を使う家屋が少なくなり、輸入合板に頼る。食についても同様で国際的な経済システムを利用し、安ければよいということで、日本各地の土地の生産力や食の自給率が低下してくる。結果的には日本の文化や伝統に無関心となり、都市の景観や土地利用、自然的環境にも荒廃が進む。

 豊かな社会を実現するためには近代科学の成果を活用することは必要であるが、目指すのはバランスの取れた生活空間、自然とも共生できる都市を実現することにある。現在日本では「江戸時代」が見直されているが、20世紀生まれの市場経済や企業活動、消費者の行動と文化マスコミと社会思想、そして街づくりにおいてガルブレイスのいう「悪意なき欺瞞」に踊らされていないかを再検討すべきであろう。一般に流布されている論や理屈は正しいとは限らない。

※(「悪意なき欺瞞」K・ガルブレイス著 ダイヤモンド社 佐和隆光訳)


HOME  潮騒目次

inserted by FC2 system