主張

公共施策における「正義」とは何か

峯 悠

 ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の「これからの『「正義』の話しをしよう」という本(早川書房)が日本でもベストセラーになっている。政府による企業救済、臓器売買、徴兵と傭兵等々の事例から正義とは何かを論じている。サンデルの正義を極端に要約すると、正義は、美徳を涵養することを前提に、社会に共通する「善(よいことかどうか)」が判断基準となるというもので、久しぶりに読み応えのある書物である。

 私を含め多くの日本人は「正義」については理解が容易なのではないか。日本人は古くから庶民の美徳や武士道精神あるいは恥(羞恥心)等に基づき社会や個人の正しいあり方に対する判断基準を持ち続けている。欧米諸国の功利主義、個人主義、契約型社会とは一線を画し、正しい世の中・社会について共通する認識を持っていると思いたい。しかし最近の風潮や世の中の動きからはそれらが崩壊しかかっている。尊属殺人、子供の虐待、拝金主義、金さえあればという風潮、品格や勤勉さの軽視、礼儀やマナーの欠如、政治家の出処進退、など憂慮すべき状況である。正しいことが揺らいでいる。

 その根本的な原因の一つに、国の繁栄の評価を経済的な繁栄、言い換えるとGDP(国民総生産)を如何に高めるかということに邁進してきたことにある。40年前のケネディーの演説では「GDPには開発による自然の喪失、大気汚染や公害、事故に伴う救助費用、低俗なテレビ番組に関連するものなど全てが金銭換算される。それなのにGDPには子供の健康、教育の質、遊びの喜びの向上、家族の強さ、市民の知性、公務員の品格は含まれない。我々の機知も勇気も、知恵も知識も、思いやりも評価されない。要するにGDPの評価するのは、生きがいのある人生を作るもの以外のすべてだ」という(前掲書より)。このようなGDP至上主義から脱却するには、国柄および国土を構築する公共政策・社会政策において正義を貫くことである。

 科学や医療等の分野では確実に昔より進歩し安全や生活水準は向上し、人々の生活は豊かになった。しかし最近の都市・町・地域社会は私自身が知っている昔よりよくなったとは思えない。都市インフラは整備されたが、コミュニティーや地域の絆が弱くなり、自然の減少による日本の美しい里山の風景が損なわれ、美意識や品位が低下し、地域間での格差が確実に拡大している。戦後日本は中央集権体制による経済成長と地域間格差の是正を柱に所得の再配分と基盤整備に努めてきたが、現在は地方分権による新たな国づくりへの転換期にある。その期待感があって民主党政権が誕生したが、正しい公共・社会政策の意識がどれだけあるかは疑問である。子供手当や農家個別保障などバラマキ施策は国民の多くが疑問視しているし、高速道路無料化なども公共交通の疲弊や地域間格差を助長することになっている。正義を貫いている(正しいこと)とはとても思えない。

 地デ研の主要テーマである「公共交通」と「地域遺伝子を活用した」まちづくり等はこれまでの都市の在り方を地道に模索してきた中での到達点であるが、正しい公共政策という観点からも十分意味を持つ課題である。この公共交通を重視し、日本人が納得する伝統や文化を生かしたまちづくりが、ケネディーのいう「生き甲斐のある人生」を達成できる社会を創り出す公共政策の中核となるものと考える。今更正義というのも少し気恥ずかしいが、混沌としている現在こそ、「正義=正しいこととはどのようなことか」を真面目に考え、議論したいと思う。


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