REPORT

東日本大震災

〜一日も早い復旧・復興、そして生活再建を願って〜

片瀬範雄

 三陸沖を震源とするM9というこれまで観測史上数番目ともいわれる超巨大地震が2011年3月11日午後2時46分ごろ発生し、14,508人の犠牲者と11,452人の行方不明者(4月27日現在)そして19兆円(世界銀行)を超える被害をもたらした東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)については、これまでの地震に対する私たちが持っていた想定を大きく変える出来事でありました。

◆地震への想定 大きく変える出来事


宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区で進む瓦礫撤去と小高い丘

 今回の被災地を見るとき、平成の合併により同一市町となりながら異なった地形や地域ごとに多種多様な濃厚なコミュニテイーがあり、津波への恐怖感が強く残る中で何処に住宅を再建するか、水産業を中心とする関連企業全ての業種が復興しともに生活再建を図る必要があるのではなどと連日のマスコミ報道やインターネット上の情報から解決策を自分なりに模索していました。

 そのような中、神戸市からも避難所をはじめとして、原発への注水作業やインフラの復旧支援、また復興についての体験報告など既に1200名以上が派遣されています。また私も参加し、震災体験の伝承や研究を行ってきた「神戸防災技術者の会(略称K-TEC)」はこれまで培ってきたノウハウを活用しながら神戸市危機管理室の配下のもと派遣された会員からの各種問い合わせや、資料請求に応えるなど後方支援を行っていました。しかし、それらの情報は仙台平野における平地の被災内容や激甚被災のまちの一部の様子が中心で、リアス式海岸に沿ってのまちの全貌が理解できない、津波が山間部のまちをどのように破壊しているのか、震度7である限り振動による家屋被害や構造物被害があるのではないかとの疑問が強くあり、現地を踏査したい思いを募らせていました。

思い募らせ単独行動の現地調査へ

 海岸沿いの道路も応急復旧により通行可能となり、また被災地も1カ月を経過してかなりの落ち着きを取り戻しつつある中で、私は4月22日から24日まで単独行動による現地調査に入りました。22日は仙台市と仙台空港がある名取市の災害対策本部を訪ね、派遣職員を激励するとともに対応状況を聴取しました。

 名取市では被災後1カ月以上になるにもかかわらず罹災証明の発行はまだ十分でない中、弔慰金の支給を控え神戸市派遣職員を中心に手続きをどのようにしていくか議論が進められており、人口7万人余の自治体にとって弔慰金が国から支給されるまでの間の繋ぎ資金の調達に苦慮しているとの話に国と自治体の間での調整不足の中、被災者支援をしなければならない中小自治体の苦悩を感じました。また、このような自治体では元々職員数が少ないことから、中国の四川大震災の時のような復興資金の負担まで負わない人的支援のみの「対口支援」が採用され、特定自治体同士で気心がわかるような応援体制がとられる必要性を強く感じました。被災者を守る、またそのために自治体職員を守れるのは通常時から住民と接し、悩み、苦しみ、喜びを共有している末端の市町村職員であると考えるし、阪神の時に多くの市町職員の派遣に助けられたことを思い出していました。

◆命守る丘の大切さ実感

 名取市の津波被災地域の瓦礫撤去はかなり進んでいる中、平地部での小高い丘には津波の爪あとは無く、仙台市の海浜公園内の冒険広場の丘に避難した子供達が一命を取り留めた事例もあり、丘の大切さはその後の各視察地域にも共通しており、復興に際し大げさな避難施設よりはこのような公園的高台を作り、適切な避難通路と同報系無線放送設備の拡充そして日常の避難訓練により、生命を守ることは出来ると考えさせられました。

 23〜24日は塩釜市から大船渡市まで海岸沿いに北へ北へと車を走らせ、被災状況そして復旧の進捗、復興に際して留意すること、そしてそのために被災地の地形などいろいろな視点から視察をしてきました。

 
峠を越えると津波に襲われ街が、そして中心市街地は(宮城県女川町)

 峠を越えると目の前に被災したまちがいきなり出現、そして漁港のまちの低地に降り立つとそこには言葉で言い表せない津波の脅威と惨状が身に振りかぶってくる。住民はほとんど見かけず、行方不明者を捜査する自衛隊員や消防・警察関係者、瓦礫を運ぶダンプカーなどの活動のみであり、どんよりと垂れ下がる雲と小雨に悲惨さがより強まる光景の連続。同じような被災に見えながら実はそれぞれの営みが異なることを実感しながら、そしてこれらの違いを考えた復興の大切さを感じながら、国道398号や国道45号沿いの街の被災と周辺の地形などを中心に写真に収めていました。


雄勝公民館の上に流されたバス(宮城県石巻市)

◆被災地の事例に思うこと


 いまだ被災状況の全体が十分に把握できているとは言いがたい時期であり、また内容が異なることから阪神と単純な比較が無駄と言われる可能性は大ですが、あえて2〜3の事例を記載すると

  1. 復旧の最低条件であるライフラインを見たとき、水源を井戸に求めていた人口1万人程度の町ではタンク車の給水に頼らざるを得ません。これらの町に自己水源を求める財政力が無い現実からいかなる支援計画を立てるのか、また電力の復旧も壊滅して町の復興計画が明確化されない中、ほんの数メートルの差で高台には健全な家屋も存在し、以前の生活を営む住民もあることから暫定的な供給が急がれていました。

  2. 仮設住宅については全国の自治体の公営や国家公務員住宅の空き家提供など阪神の時とは比較にならない戸数の申し出でがあるが、生活の自立と住宅確保の両面を考えた被災者心理を把握して提起されていると言えるのだろうかと疑問に思いました。また、建設についてもお盆までには全部の方に仮設住宅の供給との政府見解が報道されていますが、いまだ建設場所の目途、材料供給の目途は無いとの報道もあります。神戸では2カ月後には入居ヒヤリングを終え、被災地から離れた所と批判も受けましたが3万戸の計画に対して2万戸の建設を市内で着手していました。

  3. 復興計画についても基本方針が出される自治体も現れてきましたが、まだ構想の域を出ていないもので具体策ではありません。あの時基本的な復興計画と並行して具体的な復興事業についても、既存の法律の範囲内でいかに計画を推進できるか、霞ヶ関においても地方においても一体となった検討が進められ、必要な都市計画手続きなど性急すぎると非難は受けながらも進めていました。それと並行して「被災市街地特別措置法」なども制定されています。(阪神の時はこの法律に基づく手続きはしていないが財政的な面での効果はあった)

  4. 阪神の時の鉄道の被災は大きく全部が開通するまでに半年以上を要しましたが、都市部であることから復旧の是非について議論はありませんでした。しかしリアス式海岸沿いを走る三陸鉄道などの被災を見たとき、復旧にあたり経営的な面からのみ議論されると、もう復元しないのではとの思いがしました。リアス式海岸の続く被災地の高齢化は進んでおり、弱者にとって欠くことのできないインフラと感じるとともに、観光などの経済的復興を考えるなら、やはり無くてはならない施設だと感じました。

◆中小自治体に真の支援「希望の光」を

 我々が直接の被災者でない、また遠く離れて真実が伝わっていない面は否めない中、ただ数日の視察の中での想いを書きましたが、今後の復興について明確な方向性が無いことは被災者にとってこれほどの不幸せなことはありません。政治主導、広域連合などで進めるという言葉がマスコミ報道の主流の中、実務に精通し、経験も豊富で財政的な感覚も有する官僚がどのように復興に対して取り組んでいるのかの報道はありません。厳しい気象条件下の東北地方の粘り強い、人と人の強い絆のみで苦難に耐えている被災者の方々、税収10億円単位の中小自治体、平成の合併後のまだまだ一体化されていない自治体などに対して真の支援が出来るのはどのようなことなのか、もっと言葉だけでない、「希望の光」を早急に出す時と考えながらの視察でした。

 そして,このことは今後30年間に60%で発生する南海地震の対応を迫られている近畿地方に課せられた課題でもあることを認識して、支援を考えていかなければならないことを提起したいと思います。


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