ペンリレー

子供に学ぶ

住友軽金属工業(株)  若松 徹

 ある寒い日、やせ細ったオオカミが獲物を探して歩いていた。もう自分では獲物を狩ることが出来ないのか、何日も獲物を口にしていないことが見て取れた。

 そこへ一匹の野犬がやってきて、オオカミに云った、「食べ物が手に入る場所を教えてやるぜ」オオカミは、ヨロヨロとついていった。

 たどり着いた場所は、ヒトの住みかに近い残飯置き場だった。

 オオカミは、何も言わずに去っていった。

 野犬は、訳が分からず「そんなやせ我慢をして、死んでしまうぞ。楽して手に入るのに、何が気に入らないんだ?」とオオカミに呼びかけたが、オオカミは「楽をして、嫌いなヒトの世話になりたくないだけさ」と、呟いた。

 確か小学生頃に読んだか、他人から聞いた話しでした。いつの頃からか、私はオオカミの様に生きてみたいと思い始めた。他人に要求せず、他人からの施しは受けずに生きたい。しかしその思いとは別に年齢を重ね、他人の顔色をうかがう自分の性格にも気付き、独りでは何もできないことも判ってきた。そんな中でも、いろんなしがらみの中で身動きが取れなくて、ふと独りで考え事をしていると、オオカミの話しを思い出している自分に気付く。でも、ひとりでは物事は何も先に進まない。なんだかやるせない気分になる。そんな状況を行きつ戻りつしながら今社会人生活を送っているが、ずっと同じ事を繰り返している。

 学校や会社という組織に属していると、自分勝手と良識のある社会人との区別の境界線が判らなくなる。

 自分という枠組みが不明確になる。そんなに自分は主義の無い人間なのか。判断力が鈍ってくる。自分で物事の判断が付かなくなる。

 そんな時、私は、一足飛びにアメリカ人、イタリア人に想いを巡らせる。

 個人、自由を大切にするイメージ。どちらかというと自分勝手なイメージ。それぞれが、日本の風土には合わないが、私はある憧れを持ってそのイメージを膨らませてしまう。

 特異な人間を、変わった存在と避けてしまう風土よりは、面白いヤツとその存在を受止めて、からかいながらも一緒に楽しんだり、一緒に仕事をしたりする風土を楽しそうに思う。

 また、受け手側のその心のゆとりを目指したいとも思う。

 数年前から家庭を持ち、子供も持って今新たに、自分勝手と良識の狭間に立って日々悩みながら子供に偉そうにお説教をしている。子育てをしながら感じることは、親の心の状態は、子供に伝わるので、親が心のゆとりを持たないと、その子供は心のゆとりが持てないナということです。最近特にこの事を感じます。イライラすることが多く、満員電車の中では、特にそんな状態の人が多く、その人を見て相乗効果でまたイライラします。

 そんな中でも、一つだけ自信を持って自分の子供に言えることは、「一つの組織に身を埋めないで、様々な組織に見聞を広め、多くの人と接して、自分の尺度をひとつに決定せず生きていくしかない。」とでもいった事でしょうか?(当然一本の筋は持っていることが当たり前ですが。)

 また、まず自分が実践できていないのですが、「自分の主張は、相手と議論して初めて自分のものになり、改めて相手に伝えられる。だから、議論を恐れず、相手に伝えることを身に付ける。」

 思うに、これからの日本人は、もっともっと自分勝手でいいように思います。唯の我侭でなく、自己主張をしてから、議論してお互いの主義主張を認め、受け止めてから、共通項を探し出す。この文章にすると当たり前の作業が、今の自分の周辺では、出来ていない、または、中途半端に終わっているように思えます。阿吽の呼吸をやめて、判らないことは理解出来るまで相手に聞いて、自分の主張は責任を持って相手に伝える。

 相手の心を思いやることと、いいかげんに理解することを区別して、まず、自分が実践していくように努めていこうと思います。オオカミの話しを思い返しながら…。


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