日本語

地域デザイン研究会代表 平峯 悠

 今年1月、英語を第2公用語とすることを一つの柱とする「21世紀日本の構想」懇談会(座長河合隼雄)の答申がされた。英語が世界の共通語となっているにも関らず、日本の指導者ですら通用する英語を話せる人が少なく、これでは日本が世界から取り残されるというのがその理由のようである。成る程現在の日本の英語教育は問題が多すぎる。

 これに対してそんなことをすれば、本来の日本語がおろそかになり、日本の文化や伝統が崩壊してしまうとの意見も出ている。確かに最近の日本語の乱れについては、新聞の投書欄での指摘も多く、その一つがカタカナによる外国語の乱用(和製英語の類を含む)であり、知り合いの大学教授の話ことばと文章はそれが頻繁に出てくるので理解できない。もう一つは、若者言葉を中心とする流行語とTVでの単純で俗っぽい言葉が日本語を乱すというものである。

 英語の第2公用語化とは別に、私たちが正しく美しい日本語と言うときには、日本固有の言語である「やまとことば」と用法にかなった漢字を駆使した書き言葉・文章、この二つを意識していることが多い。しかし日本語とは何かを問うと言語学者も言葉に詰まるそうだ。漢字は使われてはいるものの中国語とは全く異なり、また言語学的に見て日本語の親戚語は見つけられず、日本語をいかなる語族と結びつけることに成功しなかったらしい。

 西尾幹二は、4世紀末に体系的文字と論語が王仁によってもたらされた(文字、漢字の到来はもっと古い)が、古代の日本人はこれらを中国語として読もうとせず、訓読みという決定的に新しい中国語の解読法を編み出したという(*)。よく知っている「一曰、以和為貴」を「ひとつにいわく、和(やわらか)なるをもって貴(とうと)しとなす」と読むことや大和言葉の中に漢字をうまく組み込みつつ、また万葉仮名やカナ文字を発明するなど、言語に対する天才的な国民ということができよう。日本は外国の文化をうまく取り入れ、自国の独立に役立ててきた珍しい国には違いないが、「言語は民族の精神の核である(西田)」ことを忘れ、あまりに日本語を粗末にすると由々しき事態となろう。

 言語は音であるという。外国の人に無責任にえげつない大阪弁を教えてはならない。英語を公用語とすることと併せ、日本の歴史を知り母国語での豊かな表現法をこの機会に振り返ってみたい。

 さようなら!(この言葉は外国人に快く感じる音だそうだ)

(*)西尾幹二「国民の歴史」産経新聞社


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